Emu’s blog

よくある日記

「細部に宿るのね、神」と思いながら音楽を聴いていたり、本を読んでいたりする

自分は熱心な仏教徒ではないのだけれど、
他宗教の良さを力説されればされるほど、仏教に立ち返ってしまうのだった。
おそらくそれは理屈として仏教が良いと判断しているのではなく、
自分がそのような地盤、文化圏で生きてきたからだと思う。
文化として一宗教の教えを大事にしたい、守りたいと願っているのだろう。

しかし、異なる宗教について力説されると物悲しくなるのはなぜだろう。
人と人との分かり合えなさは、すでに感じていたことなのに、
なぜか断絶を強調されているように思えてしまってならない。
遠い異国の地の宗教のように感じてしまうものについては、
どこか他人事のように思えるし、懐疑的になってしまう。

例えば、人間は神の前においてのみ平等である。という感覚が自分にはない。
理屈としては分かるかもしれない。
人を超越した神から見れば人間は平等である。それはそうだ。
ただ、何かあったときに「人は神の前では平等だからな」なんて思えない。
そもそも自分には神はいないのだ。思えるわけがない。
仏様とは、仏陀のことであり、悟りを開いた人を指す(と思う)。神ではない。
だから、神の分からなさに苦しんでしまう。
昔から神についてはよく分からなかったし、馴染めなかった。(神道的な意味だとしても)。
宗教画に描いてあるような縁遠いもの、分からないものという感じだった。
仏様という概念は幼いころからあった。分からないけれど、手を合わせていた。
わりと身近な存在だった。何かにつけて仏壇に座らされ、ナンマイダーと唱えていた。毎日手を合わせているわけではなかったけれど、
「仏様が見ている」という感覚はなんとなくあった。神ではない。
最近葬儀を初めて経験したら、仏様の存在が近くに感じられるようになった。
上手く説明できないけれど、仏教が自分の中で腑に落ちた。
自分が死んでも大丈夫、みたいなほっとする感覚があった。
これが人のつくった死の恐怖に打ち克つための宗教なのか、すごいなとも思った。(ちょっとメタ的だけど)

だからなおのこと、神が分からなくなった。
信仰とは別に他宗教についても勉強はしたいと思う。理解したいと思う。
神を知りたいと思う。
でも私は神がどんなに優れていても、仏様が良い。ずっと連れ添ってきた仲のような感じだから。
お別れするには遅すぎるぐらい考え方も染みついているだろう。

 

ただ、一つだけいいなと思うのは、仏様は細部には宿らないけれど、神は細部に宿るらしい。

その感じはなんとなくわかるし良いと思う。僅かな違いが大事だとあの人も言っていた。それはその通りだ。

「細部に宿るのね、神」と思いながら音楽を聴いていたり、本を読んでいたりする。多分私と神の出会いはそこから始まりそこに終わる気がしている。