Emu’s blog

よくある日記

音楽を考えるくらいの距離感で人間について考えていたい

 世の中は時に残酷で、時に優しく淡々と動いている。経過が痛みを伴うこともあれば、時の流れによって癒えるものもあるようだ。私はここ最近認知がはっきりしていない。眠るように日々を過ごしている。「認知がはっきりしていない」とは、子どもが物心のつくまでのあの意識の曖昧さを示しているようなイメージで書いている。「認知がはっきりしていない」状態は子どもの頃だけでなく、10代20代と若ければ、あるいは30代以降でも忘れやすさによって引き起こされる気もする。他の可能性も十二分に考えられるけれど、厳密なことは今は問題ではない。「認知がはっきりしていない」ので、良いことが起こっても、悪いことが起こっても夢のような心地でいる。

 大学生くらいの時までは人との関わりが今よりあったので、たくさんの失態を犯していた記憶がある。今までは病気の状態が悪くて他者への配慮ができていなかったと考えていたけれど、よく考えてみるとそうでないこともありそうだし、大抵のことは「認知がはっきりしていなかった」という理由で済ませられるような気がする。意識がゆらゆらしている状態ならほとんど赤ちゃんみたいなものなので、人を傷つけたり、恥ずかしい行動をとってしまったりするのも頷けるなと思った。過去のことだから他者からすればもうどうでもいいのかもしれないけど、自分のライフストーリーの中では結構重要な出来事らしいのでどうしても意味づけが必要になってくる。

 ここ最近の話に戻る。少しだけ憂鬱になって落ち込んだ時、Animenzさんのアレンジを聴いて音楽に没頭したくなっていた。正直原曲の良さはよくわからなかったんだけど(というか原曲を真面目に聴いていないので想像で書いている)、ピアノアレンジの素晴らしさは見事で、ポピュラー音楽をクラシック的な動きを用いて表現しているのが本当にすごい。ピアノの良さも生きているし、この人のアレンジで良いものを聴くたびに何かはっとさせられている。原曲を聴いたときの感動を素直に言葉やピアノアレンジで表現しているのが本当に良かった。私もそんな経験をしたいと強く願う。

 とはいえ、毎日そんな強い気持ちで音楽に向き合えるわけもなく、今日はPMSによってやる気も集中力も阻害されていたので運動くらいしかできなかった。私の音楽に対する気持ちは良くも悪くもそのぐらいである。(「その程度」とは決して思わないので「その程度」という表現は避ける)決して悲観的ではない。生活に必要なわけではないけれど、日々どこかで音楽に触れている、そのぐらいが丁度良いのだと本当に思っている。

 100分de名著の録画がたまっていることを思い出して、昨日少し観ていた。2月に放送された内容で何とは言わないけれど、あまり興味が持てずにただ流し見ている。流し見するなら見る意味はほとんどないのだけど、観ないと何かに負けた気がしてしまうから観てしまう。多分この感覚がある人は結構いると思っていて、読書も途中でつらくなっても、読みやめずにとりあえず最後まで読んでしまう経験は読書をする人ならままあると思う。あの自分の世界に対する興味のなさ、教養のなさに敗北した気分になるのはなぜなんだろう。誰にでもどうしても興味を持てないことはあるだろうに。

 

 そういえば人に話したことがあるけれど、私は個人に興味はあるけど人間には興味がない。でもそれは多くを捉えきれないから言っているだけにすぎないので、あまりあてにはならないだろうなと思い直した。確かに抽象的な「人間」はしっくりこないままで、それは漠然と「社会」と指すときと同様のとらえどころのなさなんだと思う。本当に人間について考えるのは苦手で、私は音楽を考えるくらいの距離感で人間について考えていたいらしい。だから人間に興味があり、研究している人、考えている人には感心してしまう。そんな人を見ると、私はどうしてこんなに薄情なのだろうと悩んでしまう。「愛の人だね」と言われることがあるけれど、私が真に人を愛することはまだまだ難しい。