Emu’s blog

よくある日記

夢のような日々を過ごしている

 夢のような日々を過ごしている。理想形としての日常生活を送っている感触がある。会いたい人に会って、したいことやしなければならないことをして少しずつ経験を重ねていく。

 とあるデザイン画を見て何か触発されたような心地がした。自分の特徴を思い出した。色彩感覚はもとより優れている自覚があったけれど、私は線への意識は希薄な傾向にあり、それは平面であれ、立体であれ同じで、私の目にはほとんど色しか見えていなかった。音楽もそれと同様に、私は音色に対する感度はかなり高い気がしているのだけれど、律動、リズムに対する感度が極端に低く、音楽を含めあらゆることに影響を及ぼしているようだった。ピアノを弾くために譜読みをしているときも音程はすぐに分かってもリズムの把握は時間を要した。初見演奏は本当に苦手だった。また、4リズムであれば、旋律やコードの把握はできたけれど、ドラムは何度聴いても捉えきれることがなかったし、自分でドラム譜を書こうとすれば、単調になってしまうか、ぎこちない動きになってしまった。そのような苦手意識をすればするほど、絵や音楽は要素ごとに解体され、総体として捉えることのできないものへと変わり果ててしまうのだった。ところが、色彩や音色に集中すればその他の要素にも心が開かれていき、全体を通して何か感じとることもできた。優先度は低いけれど、線やリズムを捉えることだって可能になる。

 苦手克服が本当は全ての足枷になっている気がしてならない。小中学生の頃、私は短距離走が得意なタイプで、長距離走はそこまで成績がよくなかったので、長距離走の成績をあげたくてほぼ毎日長距離を走っていたことがあったけれど、成績は全く変動しなかった。そして短距離走の記録も伸び悩んでしまった。

 同様のことを別の時期にも試みたことがある。人と話すことに苦手意識があった私は、初めてのアルバイトとして接客業を選んだ。またもや苦手を克服したかったのだ。臨機応変に行動するのも苦手で、本当に接客業には不向きな自覚があり、苦手なことに耐えながら懸命に働いたけれど、結局話は得意にならなかったし、ストレスをためこんで体調を崩してしまった。

 そうやって苦手なことを続けていると、自己肯定感もどんどん下がっていった。自分は何の役にも立たない人間なんだと認知を歪め、1年くらい鬱寄りになり療養した。

 苦手克服のための努力が一般的に良いのか悪いのかはわからないけれど、自分に関していえば得意なことを伸ばした方が総合的な能力も上がる傾向にあるとここ数年でようやく気づけた。とはいえ、曲を作るにあたって苦手を放置しておくこともできないし、ビーズ刺繍のデザインを考えるときも色だけでなく、形も必要になるので意識せざるを得ない。

 ただ注力する割合を正しく設定する必要がある。まず自分の強みや弱みを正しく理解し、次に強みを活かすためにはどうすればよいか考える。良いパフォーマンスをする以上に、何よりも自分が幸福に生きられるかどうかが人生においては重要で、より自分らしく生きるためには自分の長所を押し殺さないことが大切なんだろう。それは他者にとってもそうかもしれないから、身の回りの人の長所を見つけては伸ばして欲しいと常に願っているし、やろうとしていることを極力否定したくないと強く思っている。そんな気持ちでいられることに私はすでに幸福であって、夢を見ているような心地がしている。変化し続けることを絶望だとは思わない。常が無いことで、私はそれを糧や慰めとして生きていける。