Emu’s blog

よくある日記

何かを得るということは、何かを失うということ

私は決して退屈な人生を歩んでいるわけでも、平坦な毎日を過ごしているわけでもないのだけれど、1人の時間が多い故に他者からはやはり退屈そうに見えているのではないか、というどうでも良いようなことを考えてしまうことがある。仮にそうだとして何が悪いんだろうとも思う。

ぴたりと世界が止まる。ネットの、ツイッターの世界だ。ある人と話をしていて、私はネットに何を求めているのだろうかと少し考えてしまった。人がいるということをただ実感したいだけな気がするのだけど、どうだろうか。あるいは「ねえこれ見て」と言える親の代わりを探しているのかもしれない。「今日こんなことがあったよ」といつでも言える恋人の代わりを探しているのかもしれない。あるいは様々な世界を眺めていたいがために、多くの「人」というチャンネルをガチャガチャと回して自分と近似でありながら違うものの人生の行方を追っているのかもしれない。趣味が悪いと思われるかもしれないけれど、皆も同じようなことをやっているのだと思う。少なくともネットにいる人達は。

最近気がついたら音楽ソフトを立ち上げていることが多い。それ自体は良い傾向だし、実際音楽に関わる時間は以前より増えつつある。ところが、本に触れる時間がその分減ってしまった。仕方がないことではある。何かを得るということは、何かを失うということなのだろう。両方一日のうちにできればベストなのだけど、自分の気分はそう簡単に切り替わるものではない。音楽をしている時は音楽だけになることが多い。最近音楽ばかりをやっていて嫌な感じがするのは、ただ思考を巡らせることなくとにかく手を動かしてしまっているからだと思う。前に思考ばかりを働かせていた時は、考える余地もなく手を動かせる人って素敵だな、と思っていたが、いざなってみると全く空虚で仕方がないなという所感。オリジナル曲をぽんぽん作れていればまた感じ方は違うのだけれど、アレンジのレパートリーに行き詰まっているためにひたすらコピーをして、それをアレンジするというやや退屈な作業をやっている。その曲を理解するとき、確かに感動のようなものはあるし、良いアレンジが出来た時は嬉しいのだけれど、オリジナルではないという意識が貼り付いて良くない。目に見えぬ他者が私を馬鹿にしている。過剰な自意識の仕業だ。私はなるべくその空想の他者の言葉を真に受けないようにしている。自分を馬鹿にする自分がいることは仕方ないことだし、まだまだ何もかもが上手くいかないのはそれだけ発展性があることなのだから、喜んでも良いのかもしれないけれど、やはり焦ってしまうことはある。毎日同じようなメンタリティで過ごせるわけがないのだから。

人間関係にもガタが来ている。そのごたつきがメンタルに影響し、体調に影響し、創作活動をやるときのコンディションに影響しているのが良く分かる。気候の変化のせいもあり、如実にその影響を受け、私を困らせるのは読書ができなくなるということである。友人からもらったレポートもじっくり読みたいし、あの小説も読みたいな、音響学の勉強もしたいな、とやることはたくさんあるのだけれど、いざ手にとってみると、様々な不安や焦りで目の前の文字が上手く読み取れない。引っ越しを遅らせているこの状況が何のためにもならないのはわかっているはずなのだ。あらゆる面において良くない。でも……。

2つの関係を上手く成立させることはできないと分かっているのに、もう決めたことなのに、いざ彼を目の前にすると言い出せずにいた。まだ片付けや掃除を終えていないから、その後で言えば良いのだけども、片付けすら手につかない。まだ決心ができていないのだろうか、いや、もうきちんと決まっているはず。

苦しくてネットの世界に助けを求めたくなることがある。でも、誰も助けてはくれない。違う。助けてくれそうな人はいるけれど、自分は助けてほしくないのだ。だから助けてくれるか分からない人とコンタクトを取る。たわいのない話をする。少し気が紛れる。またあまり話したことのない人と話をする。気が紛れる。繰り返し。あんまり意味がない。誤解を招くようなので、言っておくと、相手をしてくれた人のことは今後も大切にしたいし、相手にされたときすごく嬉しくなった。多分相手が思っている以上に私は感謝しているのだ。でも、根本の解決には至らない。そもそもそういう話を避けているし、仮に話したところでどうかなるわけでもない。そういう意味であまり意味のない行動をしている。

もう少しだけ時間が欲しい。そう願っている。もう少しだけ……どこかできちんと物事を正さなければならない。やる。やってみせる。でも、もう少しだけこの中途半端な時間を過ごしても良いですか、と貴方に懇願する。貴方の胸の内を知りながら。