Emu’s blog

よくある日記

愛の気配

 愛という言葉が氾濫していて、「愛」を見聞きしない日はない。貴方も私も愛については考えていて、それでも実態は分からずじまい。確信をもって言う者が現れれば胡散臭さを伴って宗教じみてくるし、論理を突き詰めれば哲学として成り立つものの、実感とはまた別の乖離した何かであるという感触になる。私達は愛の気配を感じながら、欲望に身を投じてはこの気持ちはなんだろうと夜の空に漂って、星々に口づけを交わしている。たとえ人を想う気持ちが肌に触れたいという欲望によるものであったとしても、そのすべてを欲望として片付けるには、人の心をあまりに見縊っている。どんなに冷酷な見方をしても、欲望の中に愛の存在を認めざるを得ない。

 ずっと愛の定義なんてどうでもいいと思っていたし、私は愛について考えてこなかった人間で、今でも定義なんてどうでもいいとは思っているかもしれないけれど、人を愛したい気持ちは昔から偽りなく存在していたように思う。ただ愛し愛されたいというありふれた願望を認めたくなかった時期があった。氾濫する言葉の愛にうんざりしていた私は、J-POPの恋愛的な歌詞は大嫌いだったし、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』のように真っ向から愛について語っている本なんて手に取りたくなかった。愛にまつわる直接的な表現の歌や書籍を軽蔑し、排除してきた。でも気づいていた、いつかは向き合わなければならないのだと。25歳くらいになった時、幼い子どものように愛されることばかりを求める時期はとうに過ぎ去っていたし、私は人を愛したいと自分が願っていたことにようやく気づき始めた。
 今でも実のところ「愛したい」かといえば、ちょっと違うのかもしれなくて、ただ人を好きでいたいという感覚に近い。いつか魂同士で抱き合えるように、精神的な繋がりを求めて人と関係する。そうでなければ人と関わる動機も見えなくなる。
 ある程度の深さで、一般化していえば恋愛として人を好きになってしまうと、もっと触れたい、声を聴きたいなどという欲望がつきまとうのが苦しくて、本当に相手のことを好きなのか不安に思うことがある。あるいは、心の余裕がなくなってくると、どんな欲望や願望も起こらなくなり、同時にその人を好きだと思う感情でさえ希薄になってしまうのが怖い。毎月その現象は発生するから、その度に私は強い不安感に襲われる。自分は自分以外の誰のことも愛せないのではないか、とややナルシシスティックな感傷に浸ることもある。
 好きな人にはなるべく自分らしさを保ったまま生きてほしいと願う。それを愛と呼ぶかは分からないけれど、好きな人の意思を尊重したい。

 自分が特別な存在であると感じていた若いとき、世に溢れる愛という言葉が嫌いだったのは、安易に愛という言葉を使うようでは、真の愛に気づくことができないと考えていたからだった。人々が易易と指し示す愛なんて、紛い物でしかないと思っていた。でもそれは違った。というより、愛なんて多義的な語に明快な解を求める姿勢がそもそも違うのかもしれないと考えた。愛とはなにかという問いに向かうことは決して無駄ではないけれど、大事なのは、愛とはなにか模索しながら他者を実践的に愛することだった。それが欲望によるものであれ、自己満足によるものであれ、真剣に愛したい気持ちで人と関係することは、良い悪いといった価値観を超えて私達を豊かにする。私達の抱く感情は、通常は純度の高いものではないのだから、愛情を示す行為のなかに不純物があったとしても問題ではないのかもしれない。私は自分の感情を分析し、解体したがる癖があるけれど、自分が全知全能の存在でもなければ、特別な存在でもないことを受け入れた上で、不完全な存在として愛を志向し、相手にとって悪影響を与える可能性もあると覚悟しつつ、それでも与えていかなければならない。

 愛という概念は私の手から、貴方の手から、人々の手からすり抜けていくけれど、人と人が関係することをやめない限り、その気配をそこらじゅうに漂わせている。絶望とは、愛の気配を感じ取ることができなくなった不感症的な状態に陥ることなのかもしれない。愛がこの世にないと言いきれないことで、苦痛を覚える人もいると思うけれど、解釈によって希望にもなりうることを私はその人にそっと伝えるのだと思う。私のように一時的に愛や愛という言葉を毛嫌いする人もきっと少なくないけれど、いつか時が来て対峙することがあるかもしれない。人と関わることで変化するかもしれない。

 私の周りには人を好きになりたいと願っている人がいる。人を好きになれないのではないかと不安に思う人がいる。相手の意図している意味を掴みきれないから、迂闊な助言はできないし、導くなんて烏滸がましいと思っているけれど、人について何か思っている時点で彼、彼女らには人を好きになれる可能性がある。人は生きている限り発展していくし、心が豊かになっていくのだと信じている。

 幸福に愛は不可欠なんだろう。自分を愛し、人を愛すること。愛するとはどういうことなのか模索し続けること。愛情の表現を実践し、反省すること。今見えている人や物に集中すること。すぐにできなくても諦めないこと。

 そんなことをふわふわと最近考えていた。ここ数週間、友達と愛や人を好きになることについて語り合っていたし、フロムの『愛するということ』も読んだし、恋人に会って愛情を感じたから、このタイミングで何か書かなければならない気がしていた。いまだに安易に「愛」という言葉を使うことには抵抗があり、雑に扱う人に対してやや嫌悪感もあるけれど、昔よりも身体に馴染んできた。愛なんて甘い夢だと思っていたこともあるけれど、幻想を抱くことそれ自体を悪く思わなくなった。

 私は好きな人々とともに生きたい。貴方や貴女が生きていることを感じ取れるだけで、存分に幸せな気持ちになるし、この幸福感を分かち合いたい。
 大それたことなんて言えないし、言うつもりもない。ただ日常にある穏やかなひとときや場を幸福と呼び、愛おしく感じる心に愛があると信じたいだけだ。

夢のような日々を過ごしている

 夢のような日々を過ごしている。理想形としての日常生活を送っている感触がある。会いたい人に会って、したいことやしなければならないことをして少しずつ経験を重ねていく。

 とあるデザイン画を見て何か触発されたような心地がした。自分の特徴を思い出した。色彩感覚はもとより優れている自覚があったけれど、私は線への意識は希薄な傾向にあり、それは平面であれ、立体であれ同じで、私の目にはほとんど色しか見えていなかった。音楽もそれと同様に、私は音色に対する感度はかなり高い気がしているのだけれど、律動、リズムに対する感度が極端に低く、音楽を含めあらゆることに影響を及ぼしているようだった。ピアノを弾くために譜読みをしているときも音程はすぐに分かってもリズムの把握は時間を要した。初見演奏は本当に苦手だった。また、4リズムであれば、旋律やコードの把握はできたけれど、ドラムは何度聴いても捉えきれることがなかったし、自分でドラム譜を書こうとすれば、単調になってしまうか、ぎこちない動きになってしまった。そのような苦手意識をすればするほど、絵や音楽は要素ごとに解体され、総体として捉えることのできないものへと変わり果ててしまうのだった。ところが、色彩や音色に集中すればその他の要素にも心が開かれていき、全体を通して何か感じとることもできた。優先度は低いけれど、線やリズムを捉えることだって可能になる。

 苦手克服が本当は全ての足枷になっている気がしてならない。小中学生の頃、私は短距離走が得意なタイプで、長距離走はそこまで成績がよくなかったので、長距離走の成績をあげたくてほぼ毎日長距離を走っていたことがあったけれど、成績は全く変動しなかった。そして短距離走の記録も伸び悩んでしまった。

 同様のことを別の時期にも試みたことがある。人と話すことに苦手意識があった私は、初めてのアルバイトとして接客業を選んだ。またもや苦手を克服したかったのだ。臨機応変に行動するのも苦手で、本当に接客業には不向きな自覚があり、苦手なことに耐えながら懸命に働いたけれど、結局話は得意にならなかったし、ストレスをためこんで体調を崩してしまった。

 そうやって苦手なことを続けていると、自己肯定感もどんどん下がっていった。自分は何の役にも立たない人間なんだと認知を歪め、1年くらい鬱寄りになり療養した。

 苦手克服のための努力が一般的に良いのか悪いのかはわからないけれど、自分に関していえば得意なことを伸ばした方が総合的な能力も上がる傾向にあるとここ数年でようやく気づけた。とはいえ、曲を作るにあたって苦手を放置しておくこともできないし、ビーズ刺繍のデザインを考えるときも色だけでなく、形も必要になるので意識せざるを得ない。

 ただ注力する割合を正しく設定する必要がある。まず自分の強みや弱みを正しく理解し、次に強みを活かすためにはどうすればよいか考える。良いパフォーマンスをする以上に、何よりも自分が幸福に生きられるかどうかが人生においては重要で、より自分らしく生きるためには自分の長所を押し殺さないことが大切なんだろう。それは他者にとってもそうかもしれないから、身の回りの人の長所を見つけては伸ばして欲しいと常に願っているし、やろうとしていることを極力否定したくないと強く思っている。そんな気持ちでいられることに私はすでに幸福であって、夢を見ているような心地がしている。変化し続けることを絶望だとは思わない。常が無いことで、私はそれを糧や慰めとして生きていける。

音楽を考えるくらいの距離感で人間について考えていたい

 世の中は時に残酷で、時に優しく淡々と動いている。経過が痛みを伴うこともあれば、時の流れによって癒えるものもあるようだ。私はここ最近認知がはっきりしていない。眠るように日々を過ごしている。「認知がはっきりしていない」とは、子どもが物心のつくまでのあの意識の曖昧さを示しているようなイメージで書いている。「認知がはっきりしていない」状態は子どもの頃だけでなく、10代20代と若ければ、あるいは30代以降でも忘れやすさによって引き起こされる気もする。他の可能性も十二分に考えられるけれど、厳密なことは今は問題ではない。「認知がはっきりしていない」ので、良いことが起こっても、悪いことが起こっても夢のような心地でいる。

 大学生くらいの時までは人との関わりが今よりあったので、たくさんの失態を犯していた記憶がある。今までは病気の状態が悪くて他者への配慮ができていなかったと考えていたけれど、よく考えてみるとそうでないこともありそうだし、大抵のことは「認知がはっきりしていなかった」という理由で済ませられるような気がする。意識がゆらゆらしている状態ならほとんど赤ちゃんみたいなものなので、人を傷つけたり、恥ずかしい行動をとってしまったりするのも頷けるなと思った。過去のことだから他者からすればもうどうでもいいのかもしれないけど、自分のライフストーリーの中では結構重要な出来事らしいのでどうしても意味づけが必要になってくる。

 ここ最近の話に戻る。少しだけ憂鬱になって落ち込んだ時、Animenzさんのアレンジを聴いて音楽に没頭したくなっていた。正直原曲の良さはよくわからなかったんだけど(というか原曲を真面目に聴いていないので想像で書いている)、ピアノアレンジの素晴らしさは見事で、ポピュラー音楽をクラシック的な動きを用いて表現しているのが本当にすごい。ピアノの良さも生きているし、この人のアレンジで良いものを聴くたびに何かはっとさせられている。原曲を聴いたときの感動を素直に言葉やピアノアレンジで表現しているのが本当に良かった。私もそんな経験をしたいと強く願う。

 とはいえ、毎日そんな強い気持ちで音楽に向き合えるわけもなく、今日はPMSによってやる気も集中力も阻害されていたので運動くらいしかできなかった。私の音楽に対する気持ちは良くも悪くもそのぐらいである。(「その程度」とは決して思わないので「その程度」という表現は避ける)決して悲観的ではない。生活に必要なわけではないけれど、日々どこかで音楽に触れている、そのぐらいが丁度良いのだと本当に思っている。

 100分de名著の録画がたまっていることを思い出して、昨日少し観ていた。2月に放送された内容で何とは言わないけれど、あまり興味が持てずにただ流し見ている。流し見するなら見る意味はほとんどないのだけど、観ないと何かに負けた気がしてしまうから観てしまう。多分この感覚がある人は結構いると思っていて、読書も途中でつらくなっても、読みやめずにとりあえず最後まで読んでしまう経験は読書をする人ならままあると思う。あの自分の世界に対する興味のなさ、教養のなさに敗北した気分になるのはなぜなんだろう。誰にでもどうしても興味を持てないことはあるだろうに。

 

 そういえば人に話したことがあるけれど、私は個人に興味はあるけど人間には興味がない。でもそれは多くを捉えきれないから言っているだけにすぎないので、あまりあてにはならないだろうなと思い直した。確かに抽象的な「人間」はしっくりこないままで、それは漠然と「社会」と指すときと同様のとらえどころのなさなんだと思う。本当に人間について考えるのは苦手で、私は音楽を考えるくらいの距離感で人間について考えていたいらしい。だから人間に興味があり、研究している人、考えている人には感心してしまう。そんな人を見ると、私はどうしてこんなに薄情なのだろうと悩んでしまう。「愛の人だね」と言われることがあるけれど、私が真に人を愛することはまだまだ難しい。

「埋葬」

悲しみを通り抜けて、海の森にひたひたと浸かっている。

生き物はすべて去った後だった。私は一人で何かを待っている。

 

風との抱擁は掴みどころがなく、まっさらで空虚だ。

それでも風と抱き合うことに私は意味を見出したがった。

 

私の見つめる瞳には何が映るのだろう。

きっと海の色も空の色も溶け込んで、

しかし、ただ一色であるはずのない、多様な世界をそこに湛えている。

 

待ち疲れ、海の森を歩いていると、

戦いに敗れた者の、思い出だけが生き甲斐のような人を知る。

余生を過ごす若者の灯火では明るくならない街に、

私はただ祈ることしかできない。

どんなに悲しくても傷を負った足のない青年に、ついに同情することはなかった。

 

青年の魂は跡形もなく消えたのか。

そんなはずはない。

葬られるのはきっと思い出ではない。

私の愛。

私がファッションにこだわらなくなった理由

 私は高校生のときからファッションが大好きだった。ファッション雑誌を何冊も購入し、さまざまな系統のファッションを見て、コーディネートを学んだ。好きなモデルもいたし、好きなファッションスタイルもあった。「ギャルは嫌だけど、OLさんのようなお姉さん過ぎる服も扱いにくい、その中間のスタイルがいいな」と思っていて、それはある雑誌の対象ど真ん中のスタイルだった。この雑誌は使える!と確信した私は、その雑誌が廃刊となるまで何年も欠かさずに読み続けた。

 しかし、私がファッションを躍起になって学んだのにはわけがあった。中学時代の自分がとにかくダサかったからだ。それは明確に自覚があり、変えようと思えば変えられたことだった。でも、当時の私にはファッションに時間と労力を費やす重要性がまるで感じられなかった。恋愛もよくわからなかったし(恋愛をするほど心が発達していなかった)、勉強に力を入れていたし、そうでなくとも詩や音楽などの芸術が楽しかった。

 そして、当時は学校の校則をきちんと守ることもダサいと思われていた。制服のスカートの丈はたっぷり長めだとダサくて、違反にならない程度にできるだけ短めにするのがオシャレな人の特徴だった。髪の色も地毛で茶色い人は勝ち組で、何らかの方法によって自然な感じで茶色くしているのがオシャレな人の特徴だった。お財布はブランド物が鉄板で、それ以外はダサいという感覚が皆の中になんとなくあるのが分かった。

 今でも理解し難いけれど、とにかくそのようなことが鬱陶しくてどうでも良かった。だから私は中学でオシャレすることを初めから諦めていた。というより、オシャレすることを頑なに拒絶していた。

 ただ、そんな中学時代に気になったことがあった。容姿が整っている人はそれだけで周りの反応が良いような気がした。「オシャレにしていると、良いことがあるのかもしれない」そんな予感があった。だから、高校生になったらファッションの勉強をして、オシャレな人たちに追いつくぞと私は密かに決心していた。

 高校生になり、ファッション雑誌を解禁して学んだ。そこから分かったこと、分からないこといろいろあった。私、意外とファッションが好きなんだなと気づいた。色彩感覚を使えるし、形やバランスも関係があるのでなかなか奥が深い。オシャレな女の子たちだと思っていた人たちよりもいつの間にか洋服に詳しくなってしまった。大抵のリアルクローズブランドは知っていた。というより、知りすぎていた。洋服オタクだった。そしてそのままアパレル関係の仕事がしたくなり、アルバイトとして数年経験した。

 それから現在に至るが、今はあまり服にこだわっていない。なぜかというと、洋服は変わらず好きだけど、自分はファッションを記号的にしか扱っていないことに気づいてしまったからだった。


 服を着ることは、複合的な意味をもった営みだと思った。当たり前に理解されていることかもしれないが、昔の私にはそこが見えていなかった。現代の人にとって服を着ることにどのような意味があるか、思いつく限りあげてみる。第一に、防寒や作業で害虫から身を守る必要性としてのもの。第二に、美的感覚を追求するもの。第三に、自分の嗜好を追求するもの。第四に、記号的、言語的なコミュニケーションとしてのもの。

 第一は説明するまでもないが、原初的な意味として捉えてもらって差し支えない。実用性を重視する場合も当てはまると思われる。

 第二は、身体をよりよく見せたり、服としての芸術的な美を追求したりするものである。コレクションブランドについてはあまり詳しくないが、ショーに出てくる斬新で新鮮味のあるものがここに該当する。リアルクローズとは違って、(実際に着て街を歩けるかなどの)実用性をあまり求めない傾向がある。

 第三・第四はリアルクローズ、つまり我々の普段のファッションと大いに関係がある。第三は、自分の好みの色や形、模様、ブランドを身につけたいと思って身につけるようなことである。第四と区別している点は、他者の存在と関係なく、それを身につけることで満足するような意味合いが強い点である。第四は、他者と関係が深い。私が洋服を着るときに重視していたのもこの第四項である。第四は、ある服を着ることでそれが他者から見たときにどのような意味として機能するかおおよそ理解し、主張するもの、そして、他者の身につけているものからそれが何を示しているのか記号的意味を理解するものである。第四の場合、相互的に意味合いを同じく理解している必要はない。理解の深度は人によってそれぞれだ。同じ本を読んでも感じ方に違いがあるのと似ていて、同じ服を見ても感じ取れることはさまざまであるし、多くの人が理解できるような分かりやすい記号的意味も含まれていることが多分にある。それが服を着ている人の思惑、狙いと違うことも当然ある。

 ファッションには様々な構成要素があるが、色彩の面だけをとって見てもさまざまなメッセージを込めたり、見出したりすることができる。黒は色彩的には肉体をそのまま浮き立たせる。身体をリアルに映し出すことが可能な色である。黒を基調としたファッションは、さまざまなスタイルにおいては王道や無難と呼ばれながらも、モードファッションとして先鋭的な表現をする場でも使われる。紺色は寒色であり「締め色」として引き締まったシルエットを表現することができる。実際よりシャープに見せ、知的な印象を醸し出す。色彩心理学的にどうなのかまでは把握していないが、紺色のスーツやネクタイがビジネスシーンでは見られるし、女性ファッション誌でもネイビーは「知的」「品がある」と謳われ、かしこまった場面での相応しいカラーとして選ばれることも多いことから、歴史的、経験的にそのような印象として我々には刷り込まれている。同様に見ていくと、淡いピンクは膨張色でもあり、柔和な印象を持つため、女性に愛されてきた「女性らしい色」であると感じられる。
 そのように感じられるものを身に着けることで、例えばネイビーのワンピースを着ることで「私は上品な人である」という主張をすることができるし、見た人は「あの人は上品な人だ、品があるように思われたいのだ」と認識する。
 私は分かりやすくするためにあえて色彩という要素だけをメインに話したが、現実のファッションはもっと複雑で高度な意味合いを持つ。洋服に詳しくなればなるほど、その記号性、言語性は豊かになっていく。服は誰もが身に着けているものであるため、ファッションに無頓着な人もその例から溢れることはない。「着るものには無頓着だ」というメッセージを見る人が見れば感じ取ってしまう。なるほど、ファッションにはあまり関心が人なのかという理解を周囲の人たちはなんとなくする。素材感や微妙な色味や丈感など細部にまでこだわっている人は、見る人が見れば着ている人がその服で表したい何かが分かるはずである。
 逆にオシャレに無頓着な人から見るとどうだろう。着るものに無頓着であると、他者を見たときもざっくりとした所感だけになり、感じ取れることが少ないため、尚更ファッションにこだわってみようという気は起こらない。起こらないだけでなく、なんとなくオシャレな人たちを嫌悪する感覚さえ抱く。

 ここまで書けば私がファッションにこだわらなくなった理由はなんとなく分かるかもしれない。ファッションにおける記号の習熟度といえばよいのだろうか、その理解の深度によって人と人の間でなされるコミュニケーションの質的なばらつきがなんだかもう嫌になったのである。そして、各々の着ているファッションがなんとなく漂わせている記号に過剰に反応することに疲れてしまったのだ。これは一般的なファッションに対する価値観や感覚とはズレているように思うので、私個人の体験・思考であることを念押ししておくが、私にとってのファッションは過剰なまでにすべてが記号的だった。男の人にウケが良い格好だとか、百貨店に行くと店員さんがにこにこと丁寧に接客してくれるような格好だとか、女の子と遊ぶときに話題の一つになるようなオシャレな格好だとか、目上の人に良い印象を持たれる格好だとか今日は誰にも話しかけられたくない格好だとかそういうことだ。メッセージを放ち、他者のメッセージに耳を傾けることを全くやめたわけではないけれど、トーンダウンしてもっと気楽に過ごしたくなった。だから私は第四項のような目的で服を着るのはもういいかなと思うようになった。

 ただ、リアルクローズの楽しみとしては、第四項よりも第三項がより強力で豊かな楽しみ方だと思うし、本当に普段着る服を楽しんでいる人は自分の「好き」を追求している人なのではないかと推察する。つまり、ファッションは自己と向き合うことの楽しみや喜びを教えてくれるものになりうる。私が接客をしていて楽しかったのは、「この柄が可愛い」とか「この形が好きで」とか、お客様が好きなものを教えてくれる瞬間や、それを身に着けることで笑顔を振りまいてくれたことだった。だから第三項の意味でファッションが好きな人のことは大好きだし、私もそういった素朴な「好き」を追求することで今後は楽しめたらいいと思っている。

(勢いで書いたので推敲が甘く、書ききれなかったことも多いと思うので書き直すかもしれない。自分メモ)

誰かの頭の中で鳴るノイズにはなりたくない

 毎日目にするベランダの植物は、毎日目にしているのに日によって違って見える。その日晴れているか雨かでは明らかに違う。けれど、晴れ続きの日に違って見えると、私は自分の中で何かが起こっているとしか思えない。植物は眩しい輝きを放って空に向かって伸びている日もあれば、今にもぽっきりと折れてしまいそうに頭をもたげている日もある。植物は日々、私の心の様子を如実に表している。彼らはきっと芸術家で、私に鑑賞されることをいつも心待ちにしているみたい。


 植物は優しい。自身の体で何かを表現している彼らには、全く押し付けがましさがない。私がそもそも目に入れたくなければ入れないことだってできるし、こちらに全てを明け渡して「どうぞ、鑑賞してください」と堂々たる態度でそこに佇んでいる。人はその態度を見習わなければならないとつくづく思う。

 ベランダの優しい世界から抜け出して、ネットの世界に飛び込んでみると、言葉の多さに愕然としてしまう。毎朝スマホSNSのタイムラインを遡るたびにいろんな言語が目に入って、私の頭を埋め尽くしてくる。最近は読み飛ばすことを覚えたけれど、それでも時々ひりつくような感覚が目の裏を走っていく。目の裏までは届かないのに、保冷剤を目に押し当てて、簡単な手当を施すことで蓄積される罪悪感を僅かに拭い去ろうとしてみる。

 言葉は優しくない。押し付けがましい奴らは、意味という鋭い刃で私を貫いてしまう。植物のようにはいかないから、私は日によって異なる自分の感受体を呪いながら、言葉の波にのまれ、揉まれる。摩擦が生じて、日々生まれ変わる私の整合性のなさに戸惑って離れていく人も少なくない。普段ならなんてことないセリフに妙に切り刻まれたり、普段なら絶対に言わないようなことを軽々しく口にして他者を傷つけたり、そんなことが当たり前とされる日々の中で繰り広げられる。

 言葉の存在そのものは悪くない。ただ、揺動する私に言葉が透過する過程で攻撃性の高いものに変換されることが良くない。だから植物がいつもと極端に異なって見えた日は、用心して言葉と向き合うか、そもそも端から向き合うべきじゃないのかもしれない。

 アイスティーにミルクを注いで、その模様を眺めていると、自分の気持ちが反映されているみたいな気分になって、均したくなってしまう。恋人はかき混ぜずにその模様を楽しむのだと言っていた。余裕があれば私もそうしたいのだけど、きっと待てなくてかき混ぜてしまう。恋人がいる間だけは待とうと思いながら、きっとかき混ぜて早々と飲み干して、さらに残った氷を噛み砕くんだろうなという想像が容易にできてしまう。興ざめするし、そんな生き急がなくていいのにね。

 一日何をしていたのか分からない日がだんだん増えてきた。やったことを挙げることはもちろんできるけれど、それは私にとって取るに足らないことで、もっと伝えたいことが他にあったはずなのに、日中は太陽光に遮られてしまって、日が落ちる頃には胸に抱いていた思いや景色はどこかに消え去ってしまう。そんな日々が増えてきた。この日々の忘れ方は、広がりゆく虚無となんとなく似ている感じがして、危機感はあるのにその危機感さえ薄らいでいくようで危ない。私は誰かの頭の中で鳴るノイズにはなりたくないのに、この忘却に侵されることで、なってしまっているかもしれないと不安になる。自分ではコントロールできない何かが私を越えてノイズへと変化している。

「はじまり」

花咲くこの道にそぐわぬ

私の自意識よ朽ちて

誰かと出会っても癒せぬ

膨らんでゆく孤独を知る

十五の月夜の夏のこと


囚われた街に

同化する悪夢を見る

消えたいの……?

消えない……?

消えてしまう瞳


救いは袂に

本を開いて君と出会った

意識は彼方へと

世界と繋がる

拓かれる日々よ


何度も見た筈の

百合の花も描けない

私は何も知らない

世界を知りたいよ


君が映し出す私を初めて見たの

自分も知らない……知りたい

手を繋ぎながら

呼応する声

共鳴のなか

孤独と共にゆく覚悟まで決めたの

前向いて囚われない

幸福を今創始する(つくる)