Emu’s blog

よくある日記

愛の気配

 愛という言葉が氾濫していて、「愛」を見聞きしない日はない。貴方も私も愛については考えていて、それでも実態は分からずじまい。確信をもって言う者が現れれば胡散臭さを伴って宗教じみてくるし、論理を突き詰めれば哲学として成り立つものの、実感とはまた別の乖離した何かであるという感触になる。私達は愛の気配を感じながら、欲望に身を投じてはこの気持ちはなんだろうと夜の空に漂って、星々に口づけを交わしている。たとえ人を想う気持ちが肌に触れたいという欲望によるものであったとしても、そのすべてを欲望として片付けるには、人の心をあまりに見縊っている。どんなに冷酷な見方をしても、欲望の中に愛の存在を認めざるを得ない。

 ずっと愛の定義なんてどうでもいいと思っていたし、私は愛について考えてこなかった人間で、今でも定義なんてどうでもいいとは思っているかもしれないけれど、人を愛したい気持ちは昔から偽りなく存在していたように思う。ただ愛し愛されたいというありふれた願望を認めたくなかった時期があった。氾濫する言葉の愛にうんざりしていた私は、J-POPの恋愛的な歌詞は大嫌いだったし、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』のように真っ向から愛について語っている本なんて手に取りたくなかった。愛にまつわる直接的な表現の歌や書籍を軽蔑し、排除してきた。でも気づいていた、いつかは向き合わなければならないのだと。25歳くらいになった時、幼い子どものように愛されることばかりを求める時期はとうに過ぎ去っていたし、私は人を愛したいと自分が願っていたことにようやく気づき始めた。
 今でも実のところ「愛したい」かといえば、ちょっと違うのかもしれなくて、ただ人を好きでいたいという感覚に近い。いつか魂同士で抱き合えるように、精神的な繋がりを求めて人と関係する。そうでなければ人と関わる動機も見えなくなる。
 ある程度の深さで、一般化していえば恋愛として人を好きになってしまうと、もっと触れたい、声を聴きたいなどという欲望がつきまとうのが苦しくて、本当に相手のことを好きなのか不安に思うことがある。あるいは、心の余裕がなくなってくると、どんな欲望や願望も起こらなくなり、同時にその人を好きだと思う感情でさえ希薄になってしまうのが怖い。毎月その現象は発生するから、その度に私は強い不安感に襲われる。自分は自分以外の誰のことも愛せないのではないか、とややナルシシスティックな感傷に浸ることもある。
 好きな人にはなるべく自分らしさを保ったまま生きてほしいと願う。それを愛と呼ぶかは分からないけれど、好きな人の意思を尊重したい。

 自分が特別な存在であると感じていた若いとき、世に溢れる愛という言葉が嫌いだったのは、安易に愛という言葉を使うようでは、真の愛に気づくことができないと考えていたからだった。人々が易易と指し示す愛なんて、紛い物でしかないと思っていた。でもそれは違った。というより、愛なんて多義的な語に明快な解を求める姿勢がそもそも違うのかもしれないと考えた。愛とはなにかという問いに向かうことは決して無駄ではないけれど、大事なのは、愛とはなにか模索しながら他者を実践的に愛することだった。それが欲望によるものであれ、自己満足によるものであれ、真剣に愛したい気持ちで人と関係することは、良い悪いといった価値観を超えて私達を豊かにする。私達の抱く感情は、通常は純度の高いものではないのだから、愛情を示す行為のなかに不純物があったとしても問題ではないのかもしれない。私は自分の感情を分析し、解体したがる癖があるけれど、自分が全知全能の存在でもなければ、特別な存在でもないことを受け入れた上で、不完全な存在として愛を志向し、相手にとって悪影響を与える可能性もあると覚悟しつつ、それでも与えていかなければならない。

 愛という概念は私の手から、貴方の手から、人々の手からすり抜けていくけれど、人と人が関係することをやめない限り、その気配をそこらじゅうに漂わせている。絶望とは、愛の気配を感じ取ることができなくなった不感症的な状態に陥ることなのかもしれない。愛がこの世にないと言いきれないことで、苦痛を覚える人もいると思うけれど、解釈によって希望にもなりうることを私はその人にそっと伝えるのだと思う。私のように一時的に愛や愛という言葉を毛嫌いする人もきっと少なくないけれど、いつか時が来て対峙することがあるかもしれない。人と関わることで変化するかもしれない。

 私の周りには人を好きになりたいと願っている人がいる。人を好きになれないのではないかと不安に思う人がいる。相手の意図している意味を掴みきれないから、迂闊な助言はできないし、導くなんて烏滸がましいと思っているけれど、人について何か思っている時点で彼、彼女らには人を好きになれる可能性がある。人は生きている限り発展していくし、心が豊かになっていくのだと信じている。

 幸福に愛は不可欠なんだろう。自分を愛し、人を愛すること。愛するとはどういうことなのか模索し続けること。愛情の表現を実践し、反省すること。今見えている人や物に集中すること。すぐにできなくても諦めないこと。

 そんなことをふわふわと最近考えていた。ここ数週間、友達と愛や人を好きになることについて語り合っていたし、フロムの『愛するということ』も読んだし、恋人に会って愛情を感じたから、このタイミングで何か書かなければならない気がしていた。いまだに安易に「愛」という言葉を使うことには抵抗があり、雑に扱う人に対してやや嫌悪感もあるけれど、昔よりも身体に馴染んできた。愛なんて甘い夢だと思っていたこともあるけれど、幻想を抱くことそれ自体を悪く思わなくなった。

 私は好きな人々とともに生きたい。貴方や貴女が生きていることを感じ取れるだけで、存分に幸せな気持ちになるし、この幸福感を分かち合いたい。
 大それたことなんて言えないし、言うつもりもない。ただ日常にある穏やかなひとときや場を幸福と呼び、愛おしく感じる心に愛があると信じたいだけだ。