Emu’s blog

よくある日記

ここが限界点かなと思った。限界に来て私は1つの気付きを得た。どちらにせよ1人で決められることではなかったのだ、と。何かを選ばなければならない時、それを人と共に行うという考えがあまりなくて、私は1人きりでいるときに1人きりで考えなければならないと思っていた。実はそうではなかった。私は結局最後の最後で決断するのを諦めて、他者に委ねたのだ。委ねるということが私の決断であった。

こんなことをいうとあらゆる方面から非難が来るかもしれないけれど、誰かと共にいるということを私は単にタイミングの良し悪しで選択した節がある。もしかしたらタイミングによっては別の人と一緒に居たかも知れない。どう考えても「この人でなければダメなんだ」ということはない気がしている。ゆえに、私は本来的には誰かと共にいるということはやはり合わないのだと思う。「この人しか見つめられない」、そんな感覚にならない。「この人を幸せにしたい」、そんなことは願わない。私という人はどこまでいっても自己中心的で、どうしようもなく気まぐれで、ある日突然いなくなる。ところが、「それでもいい」と言ってくれる人がこれまでを考えると相当数いたし、いる。これを幸福と呼ぶのだろうか。あるいは呪縛?何にせよ、私にとっては普通ではなく、大変に不思議なことなのだ。

                                                                                                   

私が桜をじっくりと鑑賞する前に、ツイッターのフォロワーさんたちが桜の写真を多数アップしていたのでその写真を眺めてしまった。ああ、私の「春」はこれで終わりなんだろうか。そんなことを考える。実際の桜に触れる前に春が終わるなんて、あまりに辛すぎる。思い描いた春は、そして桜は本当に綺麗で、私はその春の桜にずっと触れたくて長い冬を耐え忍んでいたはずなのに、いつの間にか桜が手元から離れてすでに咲き誇っている。春は私を通り過ぎて勝手に終わろうとしている。私は一体何を待っていたのだろうと唐突に空に投げ出されたような感じがしていた。ぼんやりと虚無を眺めている。そして眺めたまま、ぼんやりと一生を終えたいような気がした。そうはいかないのが人生だけれど。

 

いわゆる喪失感なんだと思う。ある決断をしたことで大事なものをなくしてしまった。同時に得たものが何なのかも良く分からない。でも私はそうなることを望んだんだろう。あらゆるタイミングによって。

時のせいにして、罪を周りに擦り付けようなんて思ってはいない。でも、やっぱり時のせいもあるんだと思う。そして私はサガンの『ブラームスはお好き』のラストをなぜか思い出す。「私はもうおばあちゃんなのよ」と若い青年に対して言うあれを。老いのせいになんてしたくない。けれど、なぜか思い出してしまう。重ねたくないのに。

 

自分で決めたことなのに、きっと私は、それぞれがそれぞれの人生を歩んでばらばらに変化していく過程で、そのことを憂うのだろう。終わりを見つめられる関係でないことを、ひどく悔いてしまうのだろう。それでも許されることなら、私はまだ関係を続けたい。どんな形でもいいからいつか切れてしまうその日まで繋がっていたい。そう願っている。