私は高校生のときからファッションが大好きだった。ファッション雑誌を何冊も購入し、さまざまな系統のファッションを見て、コーディネートを学んだ。好きなモデルもいたし、好きなファッションスタイルもあった。「ギャルは嫌だけど、OLさんのようなお姉さん過ぎる服も扱いにくい、その中間のスタイルがいいな」と思っていて、それはある雑誌の対象ど真ん中のスタイルだった。この雑誌は使える!と確信した私は、その雑誌が廃刊となるまで何年も欠かさずに読み続けた。
しかし、私がファッションを躍起になって学んだのにはわけがあった。中学時代の自分がとにかくダサかったからだ。それは明確に自覚があり、変えようと思えば変えられたことだった。でも、当時の私にはファッションに時間と労力を費やす重要性がまるで感じられなかった。恋愛もよくわからなかったし(恋愛をするほど心が発達していなかった)、勉強に力を入れていたし、そうでなくとも詩や音楽などの芸術が楽しかった。
そして、当時は学校の校則をきちんと守ることもダサいと思われていた。制服のスカートの丈はたっぷり長めだとダサくて、違反にならない程度にできるだけ短めにするのがオシャレな人の特徴だった。髪の色も地毛で茶色い人は勝ち組で、何らかの方法によって自然な感じで茶色くしているのがオシャレな人の特徴だった。お財布はブランド物が鉄板で、それ以外はダサいという感覚が皆の中になんとなくあるのが分かった。
今でも理解し難いけれど、とにかくそのようなことが鬱陶しくてどうでも良かった。だから私は中学でオシャレすることを初めから諦めていた。というより、オシャレすることを頑なに拒絶していた。
ただ、そんな中学時代に気になったことがあった。容姿が整っている人はそれだけで周りの反応が良いような気がした。「オシャレにしていると、良いことがあるのかもしれない」そんな予感があった。だから、高校生になったらファッションの勉強をして、オシャレな人たちに追いつくぞと私は密かに決心していた。
高校生になり、ファッション雑誌を解禁して学んだ。そこから分かったこと、分からないこといろいろあった。私、意外とファッションが好きなんだなと気づいた。色彩感覚を使えるし、形やバランスも関係があるのでなかなか奥が深い。オシャレな女の子たちだと思っていた人たちよりもいつの間にか洋服に詳しくなってしまった。大抵のリアルクローズブランドは知っていた。というより、知りすぎていた。洋服オタクだった。そしてそのままアパレル関係の仕事がしたくなり、アルバイトとして数年経験した。
それから現在に至るが、今はあまり服にこだわっていない。なぜかというと、洋服は変わらず好きだけど、自分はファッションを記号的にしか扱っていないことに気づいてしまったからだった。
服を着ることは、複合的な意味をもった営みだと思った。当たり前に理解されていることかもしれないが、昔の私にはそこが見えていなかった。現代の人にとって服を着ることにどのような意味があるか、思いつく限りあげてみる。第一に、防寒や作業で害虫から身を守る必要性としてのもの。第二に、美的感覚を追求するもの。第三に、自分の嗜好を追求するもの。第四に、記号的、言語的なコミュニケーションとしてのもの。
第一は説明するまでもないが、原初的な意味として捉えてもらって差し支えない。実用性を重視する場合も当てはまると思われる。
第二は、身体をよりよく見せたり、服としての芸術的な美を追求したりするものである。コレクションブランドについてはあまり詳しくないが、ショーに出てくる斬新で新鮮味のあるものがここに該当する。リアルクローズとは違って、(実際に着て街を歩けるかなどの)実用性をあまり求めない傾向がある。
第三・第四はリアルクローズ、つまり我々の普段のファッションと大いに関係がある。第三は、自分の好みの色や形、模様、ブランドを身につけたいと思って身につけるようなことである。第四と区別している点は、他者の存在と関係なく、それを身につけることで満足するような意味合いが強い点である。第四は、他者と関係が深い。私が洋服を着るときに重視していたのもこの第四項である。第四は、ある服を着ることでそれが他者から見たときにどのような意味として機能するかおおよそ理解し、主張するもの、そして、他者の身につけているものからそれが何を示しているのか記号的意味を理解するものである。第四の場合、相互的に意味合いを同じく理解している必要はない。理解の深度は人によってそれぞれだ。同じ本を読んでも感じ方に違いがあるのと似ていて、同じ服を見ても感じ取れることはさまざまであるし、多くの人が理解できるような分かりやすい記号的意味も含まれていることが多分にある。それが服を着ている人の思惑、狙いと違うことも当然ある。
ファッションには様々な構成要素があるが、色彩の面だけをとって見てもさまざまなメッセージを込めたり、見出したりすることができる。黒は色彩的には肉体をそのまま浮き立たせる。身体をリアルに映し出すことが可能な色である。黒を基調としたファッションは、さまざまなスタイルにおいては王道や無難と呼ばれながらも、モードファッションとして先鋭的な表現をする場でも使われる。紺色は寒色であり「締め色」として引き締まったシルエットを表現することができる。実際よりシャープに見せ、知的な印象を醸し出す。色彩心理学的にどうなのかまでは把握していないが、紺色のスーツやネクタイがビジネスシーンでは見られるし、女性ファッション誌でもネイビーは「知的」「品がある」と謳われ、かしこまった場面での相応しいカラーとして選ばれることも多いことから、歴史的、経験的にそのような印象として我々には刷り込まれている。同様に見ていくと、淡いピンクは膨張色でもあり、柔和な印象を持つため、女性に愛されてきた「女性らしい色」であると感じられる。
そのように感じられるものを身に着けることで、例えばネイビーのワンピースを着ることで「私は上品な人である」という主張をすることができるし、見た人は「あの人は上品な人だ、品があるように思われたいのだ」と認識する。
私は分かりやすくするためにあえて色彩という要素だけをメインに話したが、現実のファッションはもっと複雑で高度な意味合いを持つ。洋服に詳しくなればなるほど、その記号性、言語性は豊かになっていく。服は誰もが身に着けているものであるため、ファッションに無頓着な人もその例から溢れることはない。「着るものには無頓着だ」というメッセージを見る人が見れば感じ取ってしまう。なるほど、ファッションにはあまり関心が人なのかという理解を周囲の人たちはなんとなくする。素材感や微妙な色味や丈感など細部にまでこだわっている人は、見る人が見れば着ている人がその服で表したい何かが分かるはずである。
逆にオシャレに無頓着な人から見るとどうだろう。着るものに無頓着であると、他者を見たときもざっくりとした所感だけになり、感じ取れることが少ないため、尚更ファッションにこだわってみようという気は起こらない。起こらないだけでなく、なんとなくオシャレな人たちを嫌悪する感覚さえ抱く。
ここまで書けば私がファッションにこだわらなくなった理由はなんとなく分かるかもしれない。ファッションにおける記号の習熟度といえばよいのだろうか、その理解の深度によって人と人の間でなされるコミュニケーションの質的なばらつきがなんだかもう嫌になったのである。そして、各々の着ているファッションがなんとなく漂わせている記号に過剰に反応することに疲れてしまったのだ。これは一般的なファッションに対する価値観や感覚とはズレているように思うので、私個人の体験・思考であることを念押ししておくが、私にとってのファッションは過剰なまでにすべてが記号的だった。男の人にウケが良い格好だとか、百貨店に行くと店員さんがにこにこと丁寧に接客してくれるような格好だとか、女の子と遊ぶときに話題の一つになるようなオシャレな格好だとか、目上の人に良い印象を持たれる格好だとか今日は誰にも話しかけられたくない格好だとかそういうことだ。メッセージを放ち、他者のメッセージに耳を傾けることを全くやめたわけではないけれど、トーンダウンしてもっと気楽に過ごしたくなった。だから私は第四項のような目的で服を着るのはもういいかなと思うようになった。
ただ、リアルクローズの楽しみとしては、第四項よりも第三項がより強力で豊かな楽しみ方だと思うし、本当に普段着る服を楽しんでいる人は自分の「好き」を追求している人なのではないかと推察する。つまり、ファッションは自己と向き合うことの楽しみや喜びを教えてくれるものになりうる。私が接客をしていて楽しかったのは、「この柄が可愛い」とか「この形が好きで」とか、お客様が好きなものを教えてくれる瞬間や、それを身に着けることで笑顔を振りまいてくれたことだった。だから第三項の意味でファッションが好きな人のことは大好きだし、私もそういった素朴な「好き」を追求することで今後は楽しめたらいいと思っている。
(勢いで書いたので推敲が甘く、書ききれなかったことも多いと思うので書き直すかもしれない。自分メモ)