Emu’s blog

よくある日記

誰かの頭の中で鳴るノイズにはなりたくない

 毎日目にするベランダの植物は、毎日目にしているのに日によって違って見える。その日晴れているか雨かでは明らかに違う。けれど、晴れ続きの日に違って見えると、私は自分の中で何かが起こっているとしか思えない。植物は眩しい輝きを放って空に向かって伸びている日もあれば、今にもぽっきりと折れてしまいそうに頭をもたげている日もある。植物は日々、私の心の様子を如実に表している。彼らはきっと芸術家で、私に鑑賞されることをいつも心待ちにしているみたい。


 植物は優しい。自身の体で何かを表現している彼らには、全く押し付けがましさがない。私がそもそも目に入れたくなければ入れないことだってできるし、こちらに全てを明け渡して「どうぞ、鑑賞してください」と堂々たる態度でそこに佇んでいる。人はその態度を見習わなければならないとつくづく思う。

 ベランダの優しい世界から抜け出して、ネットの世界に飛び込んでみると、言葉の多さに愕然としてしまう。毎朝スマホSNSのタイムラインを遡るたびにいろんな言語が目に入って、私の頭を埋め尽くしてくる。最近は読み飛ばすことを覚えたけれど、それでも時々ひりつくような感覚が目の裏を走っていく。目の裏までは届かないのに、保冷剤を目に押し当てて、簡単な手当を施すことで蓄積される罪悪感を僅かに拭い去ろうとしてみる。

 言葉は優しくない。押し付けがましい奴らは、意味という鋭い刃で私を貫いてしまう。植物のようにはいかないから、私は日によって異なる自分の感受体を呪いながら、言葉の波にのまれ、揉まれる。摩擦が生じて、日々生まれ変わる私の整合性のなさに戸惑って離れていく人も少なくない。普段ならなんてことないセリフに妙に切り刻まれたり、普段なら絶対に言わないようなことを軽々しく口にして他者を傷つけたり、そんなことが当たり前とされる日々の中で繰り広げられる。

 言葉の存在そのものは悪くない。ただ、揺動する私に言葉が透過する過程で攻撃性の高いものに変換されることが良くない。だから植物がいつもと極端に異なって見えた日は、用心して言葉と向き合うか、そもそも端から向き合うべきじゃないのかもしれない。

 アイスティーにミルクを注いで、その模様を眺めていると、自分の気持ちが反映されているみたいな気分になって、均したくなってしまう。恋人はかき混ぜずにその模様を楽しむのだと言っていた。余裕があれば私もそうしたいのだけど、きっと待てなくてかき混ぜてしまう。恋人がいる間だけは待とうと思いながら、きっとかき混ぜて早々と飲み干して、さらに残った氷を噛み砕くんだろうなという想像が容易にできてしまう。興ざめするし、そんな生き急がなくていいのにね。

 一日何をしていたのか分からない日がだんだん増えてきた。やったことを挙げることはもちろんできるけれど、それは私にとって取るに足らないことで、もっと伝えたいことが他にあったはずなのに、日中は太陽光に遮られてしまって、日が落ちる頃には胸に抱いていた思いや景色はどこかに消え去ってしまう。そんな日々が増えてきた。この日々の忘れ方は、広がりゆく虚無となんとなく似ている感じがして、危機感はあるのにその危機感さえ薄らいでいくようで危ない。私は誰かの頭の中で鳴るノイズにはなりたくないのに、この忘却に侵されることで、なってしまっているかもしれないと不安になる。自分ではコントロールできない何かが私を越えてノイズへと変化している。