Emu’s blog

よくある日記

思いはどんどん記憶に埋もれていく

 虚構について語れたら楽なのになと思ったり、現実について語れたら楽なのになと思ったり、私はとにかく思うことで忙しい。そうして何も語らないまま思いはどんどん記憶に埋もれていく。

 あの人と連絡が取れてないとか、この人に連絡しなきゃとか、そういう関係性云々を考えることに疲れてしまい、新年の挨拶も上手くできないままに2019年が始まった。世間的には「始まった」のだけど、私の中では何も始まっていないので挨拶しなくて良かったかもしれない。もちろん抱負なんかも語ることはしない。前から切に願っているのは、心身の調子が安定すること。

 「感情を大事にしない人がいる」と表すことができるように、「感情以外を大事にしない人がいる」とも言えてしまうこの言葉の便利さに私は少し戸惑ってしまう。これは例であるので、他の事柄でも良いが、今日たまたま話したことがこの話だったので出してみた。感情に溺れている人も、それを取るに足らないものだと削ぎ落としてしまった人も苦手だ。しかし、そんな極端な人はそういない。私の周りには僅かにそのような人達もいるので全くいないということもできないのだけれど。また、おそらく私が考えるような「感情を大事にしない人」「感情以外を大事にしない人」と形容できる人というのは少ないのだけれど、言葉として成り立ってしまうと、どうにも現実味を帯びて良くない。つまり、世の人々がそのようなタイプに綺麗に切り分けられるような感じがしてしまう。

 言葉に振り回されるのは言葉を扱う人すべてに起こりうることではあるのだけれど、起こりやすい人の特徴として真面目であることが容易に想像できる。(自分でいうのもなんだけれど、私は真面目な部類だと思う。限定的な真面目さだけど。)この言葉に振り回されるという経験なくして言葉をきちんと扱えるようになるのだろうか、と思う。時折言葉に遊ばれながらも真摯に向き合い続ける人こそ、言葉の世界で言葉の可能性を拡張しうる存在になれるのではないか。

 このように言葉についての話をすればするほど、ある種の胡散臭さが漂ってしまうのは、言葉とモノの関係に着目すると分かることかもしれない。言葉はモノについて表すことができるけれど、モノの存在そのものではない。つまり書き手の認識や解釈が必ずといっていいほどついてくる。名称にはそういったものは付きにくいかもしれないが、やはり完全に書き手の意図を削ぎ落とすことは難しい。そういったことがマイナスに働くとき、言葉は嘘になり胡散臭くなるし、良い方向へ働けばその虚構を通して人に様々な働きを生むことになる。

 とまあ、私は今ここで言葉についての話がすごくしたいというわけでもなかったのに、話してしまうほどには言葉の力を信じているのかもしれない。

 今日は日本らしさについて、とりわけ音楽における日本らしさって何だろうと昔考えたことを軸に少し考え直した日だった。内容はTwitterに書いたので気になる人は見に来てほしい。

 最近考えていることなら他にもあるのだけれど、愚痴っぽい内容になるので控えたい。他にも今のこの状況を赤裸々に、具に語るということもできなくはないけれど、いつもと同じカラーになるのであまり気が進まない。がらりと違う話をしようとすると、完全に虚構になる。どうしようもない事態だ。本を読んで感想を言うぐらいしかできそうにないが、感想が言えそうな本を読んでいないという問題がある。

 本といえば、大好きなエンデの『はてしない物語』の電子書籍版を購入し、スマホに入れた。これでいつでも好きな文章が読める。スマホで読むと、紙で読むときよりどうやら負荷が少ないらしく、病気で読みにくくなってしまった私でも少し読みやすい。どうしてなのか分からないままだけど、電子書籍でも良さそうなものは電子書籍を利用したいと思う。読もうと思っている本が専門書ばかりなので、劇的に状況が変わるわけでもなさそうだけど。

 そういえば冬用にもこもこのパジャマを買ったのだけど、やっぱりもこもこは可愛くてあったかくて最高だった。いくつになってももこもこパジャマはやめられそうにない。