「双極性障害」
結った黒黒とした髪が揺れます
なびくのは私か、貴方か、ただの後れ毛かそれも定かではありません
はらくだ色の麦わら帽子を被り、貴方と住宅街を忍ぶように歩きます
色とりどりの家々は賑やかに、伸びたり縮んだりして周囲を受け入れているようです
はらりとアスファルトに落ちた名を知らぬ薄紅の花がありまして
花びらをひとつ、ふたつと数えてみます
数えるうちに数を忘れる私は、いつまでも数え終えることができません
簡単におしまいにしてしまう貴方のその背中を
私は追うことしかできぬのでしょうか
命あった花が、私の手の内で完全に砕けてしまいました
貴方の温かな言葉に私の心は若草色へと変化して
霧雨も私の罪を溶かすように優しく降ってきました
ところが突然私は放り出されたのです
罪はなくなりませんでした
貴方はずっとずっと遠くから鉛色の言葉で私を叩くのです
雨は私の目を塞いできました
からがら家路につきました
あらゆるものによって、貴方によって
ひやりとした壁に打ち付けられ、私は真っ白になってしまいそうです
優しい気持ちでいる。短い軽躁状態が突然消えて鬱っぽくなってしまった。どんよりとしている。でも、相手をしてくれた人がいたおかげで幾分良くなった。
「双極性障害」という詩を書いたことがある。(上に載せておいた。)詩について何か語るということは普段はあまりしたくないのだけれど、この詩に関しては少し語ってみたいなという気持ちがあるので、覚えている限りの自分の意図というものをあえて書き記してみたい。
この詩で特徴的だと思っている部分は、様々な色が出てくる点にある。「黒黒とした髪」、「はらくだ色の麦わら帽子」、「色とりどりの家々」、「薄紅の花」、「私の心は若草色」、「鉛色の言葉」、「私は真っ白」。ひとつひとつに明確な意図があるわけではないが、「黒黒とした髪」は特に象徴的で、黒い髪に若さや生命の力強さのようなものを見出したゆえに当時の私は書きたかったのだろう。そしてその後に出てくる色、カラフルさというのは軽躁状態の自分が見ている世界だ。「色とりどりの家々は賑やかに、伸びたり縮んだりして周囲を受け入れている」というのも、「世界が私を祝福している」という躁の時の状態を自分の目線で言い表したかった。
「私」はアスファルトに落ちた花の花びらを数え始める。冒頭にある「なびくのは私か、貴方か、ただの後れ毛かそれも定かではありません」という部分とも大いに関係があるのだが、冒頭の意図するところは、自分の髪が揺れているのにも関わらず、私というものがわからない、私を私と認識していない自分というものがいる、ということだ。つまり自分と他者(人やモノ)の区別がつきにくいという苦しみ、というか困り感のようなものがそこに出ている。「貴方」と「私」が恋をしているというニュアンスもおそらくあった。
花びらを数える「私」というのも、なんとも奇妙で「数えるうちに数を忘れる」。「貴方」は「簡単におしまいにしてしまう」、そして「その背中を私は追うことしかできぬのでしょうか」。他者が当たり前のようにできることが自分にはできないのだという苦痛、そしてそのできないということを認めると、いつまでも遅れをとってしまう自分を受容しなければならないという不安が出ている。
花びらを数えることに夢中になっていた「私」は、すでに道路に落ちてしまった花ではあったけれど、その命を完全に、決定的に絶ってしまったことに罪悪感を抱く。でも、軽躁状態である「私」は「貴方の温かな言葉に」よってすぐにその罪を問題のないものだと片付ける。貴方や「霧雨」という自然でさえ自分を肯定してくれるものだと思っているのだ。
「ところが突然私は放り出された」。つまり、鬱状態がやってきた。すると、胸のどこかでチクリと痛む程度だった罪の意識は増幅し、近くに感じていた「貴方」の存在も遠くに感じる。そして「貴方」が投げかけた言葉さえ「鉛色」になる。なんだか責められているような気がしてしまう。あれだけ祝福していた世界も「目を塞いで」くる。地獄のような日々の始まりである。たったひとりきりになり、「真っ白になってしまいそう」。「黒黒とした髪」に対して「白」というものはここでは死を意味するのだ…。
捉え方によって変化する周囲と自分の関係、そして自分のことをうまく把握できないという苦痛。そのようなものをこの詩では書きたかったのかもしれない。