微睡みの中で確かに温かなものが私の体に触れている。触れているというより、体全体を包み込まれているような心地である。髪を撫でられている感覚もぼんやりとあって、それを感じながら私は快く眠った。時間にしてほんの十数分の出来事だったかもしれないし、もう少し長かったかもしれないが、その快い時間は永遠に続くかのように感じられた。この時が止まってしまったかのような時間は、そう頻繁に起こるものではない。
そんな稀有な時間を思い出しながら、今日の穏やかな日を過ごしている。「蛍…。」なんとなく声に出してみるが、それが何を意味しているのか、自分でも判然としなかった。そのようなタイトルの音楽を作ったこともあれば、文字通り虫のイメージを想起しても良いしあるいは……。あるものによってすべてが1つの線で繋がるのを知っているけれど、それを表現することを避けている私がいるということによって、一体何をしたいのかやはり掴めぬままだった。つまり、その、「好き」なのかもしれない。と嘘をつく。ひどくあからさまな嘘をつくことで、私は何をしたいのだろうか、やはり分からない。この日記を読む人に向けて「こうである」と伝えたいことがあり、いつもは当たり前のように伝えているつもりなのだけれど、今日はその断片をちらちらと見せながら全体を覆い隠してしまいたいようだ。ややこしい性分である。
とある人の呟きが、私の意図の外側にぽつりぽつりと降ってきた。その的外れな言葉たちは、何を表しているのだろうか、私には見えてこない。ただこちら側にいる者にとっては、どうにも肩を竦めるようなことであり、響かない言葉は宛ら雨のようである。ずれてしまった言葉たちの、僅かな知性の可能性を信じたくて、私にはたまたま見えてこなかっただけだと言い聞かせるも、その言葉を発した者の知力のなさを揶揄したい気持ちは僅かに燻っていた。人はなぜそうやって核心に触れ得ない言葉を降らす雲を一掃したがるのだろうか。快晴に空虚はつきものだと言うのに。
ある時、ある人が私の好きだった音楽を聴いていた。青春時代に私という器に共鳴した音楽たちである。血液検査を受けているようなそんな感覚になった。言い換えると、体の中を覗かれているような気分になったのだ。一音一音が私の中に降り注いで、私という人が形成されるときに大いに影響を与えたに違いない。その音楽たちを他の人が耳にすることができる。当時の私が感じたようには感じないにしても、同じものを共有するということはどこかこっ恥ずかしくもあり、嬉しくもあった。今となっては批判の目を向けていることを明かしたい気持ちを抑えながら、なるべく鑑賞の邪魔にならないように言葉を投げかける。そのように心がけると、ウィキペディアで調べれば出てくるような事実を並べ立てることしかできないことに可笑しくなり、話すのをやめてしまう。その人は公平な目を向けてくれたのだろうか、結局のところよくは分からないのだけど、聴いてくれたということだけで私は満足してしまったのだった。
私の場合、逆の立場だとしてもその音楽たちを好意的な目で見ることができないことがある。自分の尺度でものを測ってしまう悪い癖があるからだ。その人の尺度でどう感じたかということより大事にしないといけないことなんてないのに、その音楽のどこが良いのか、どこが悪いのかを瞬時に捉えてしまう。当然、良いなと思ったところを見つけて話せば、共感は得られるのだけど、そうすると悪いと思った部分を隠さなければならなくなり、そこにほんの少し罪悪感が生まれる。他人の好きなものを鑑賞する場合、もっと受動的というか頭を空っぽにしてその音楽で体を満たすだけで良い。そういう意味では、私は聴き手としてまだまだなのだ。
つまり、私は私の好きだった音楽を聴いてくれたその人の好きなものをもっとまっすぐに受け止めたい気持ちがある。と、書いていて気づいた。音楽でなく、他のものならもっと容易いのかもしれないけれど、それを音楽においても達成できなければ、自分自身が納得いかないのだろう。
17時という切ない時間が向かってきている。何があるわけでもないが、私がこのブログを更新し、夕食を作るまでのその時間、なぜか自由に振る舞うことができなくなる。1日を振り返ってしまうからだ、と思うけれど、振り返らずにはいられないのだ。表現欲に掻き立てられている今、やることといえばおそらく音楽だが、振り返りながらでは良い音楽は作れないとも思う。しかし、何はともあれ手をつける。手をつけさえすれば、そこから何かが生まれるはずだから。