Emu’s blog

よくある日記

音楽をやっている限りは貴方と繋がっていられる

音楽をやっている限りは貴方と繋がっていられる。

そう思う日々だ。そこの貴方とも貴方とも、私は音楽がなかったら繋がっていなかったであろう。そんな繋がりがいくつもある。たまになぜ私はこのような道を選んだのだろうとふりだしに戻ることがあるけれど、この道は私にとって最も開けていた道であり、あえて選んだものではないことは明白だった。事の発端としては音楽をしていたから音楽を選んだのだけれども。何かを考える前にやっていた音楽がまさかここまで影響を齎すことになろうとは、やらせていた親も考えていなかっただろう。それだけ幼少期にさせる習い事というものは重要なのだ。音楽をやっていたら、「音楽で食べていきたい」や、「音楽にずっと携わっていたい」などと思うのは自然なことだ。だから、そこで親が「そうは簡単にいくまい」と反対する気持ちが未だに理解できない。そのまま応援すれば良い。結果的にその道でいけなかったとしても、そこに至るまでに培われた能力はきっと無駄ではないと思う。

何をやったら良いか分からなくなる時、西洋音楽の場合は楽譜を見れば良い。昨今の音楽を聴けば良い。こんなに恵まれた環境があるのだ。何も困ることはない。でも、1人でやっているとどうしたらもっと上手くなれるか見えづらいということは確かにある。作曲は教えてもらうものではないかもしれない。理論は教えたり、教えてもらったりすることはできるが、作曲そのものとなるとどうだろうか。一般的な楽曲の作り方を教えるということはなかなか難しいのではなかろうか。ジャンルを絞ったり、条件をもう少し加えたりすればもう少し易しくはなるかもしれない。でも、作曲そのものというのは教えにくいはずである。どんな方法がその人に適しているか分かりづらく、作り方がいくつもあるからだ。これは他の分野でもそうだ。小説の書き方だってきっとそうである。ハウツー本は無きにしもあらずだが、本当のところ、小説の書き方なんて教えようがないのだ。作曲も小説書きもその人にとって必要な獲得すべきスキルと獲得法がバラバラである。なのにどうして教えることができるだろうか。助言なら与えられるかもしれないが、やっぱり自分で見つけて獲得していくのが実は最も効率的ではないかと思う。

貴方は去ってしまったけれど、私はそんなに淋しくない。なぜなら、貴方が消失したわけではないからだ。音楽をやっている限りは同じ世界を見ていて、そこに生きている。私にはそんな人が何人もいる。いろんな理由で私の側からいなくなってしまったけれど、アンサンブルや共同制作はできないにしても、同じ世界にコミットしている。私は自分がやりたいことをやっているだけだし、貴方と繋がるために続けているわけではないけれど、結果それが繋がることになるのなら、とても嬉しいことだし、幸福である。

そして、今音楽を通して繋がっている貴方や、文章を通して繋がっている貴方のことを大事にしたいし、交流していたい。側で鑑賞したいし、できれば何か一緒につくりたい。時々音楽の美を始めとした難しいことも考えるけれど、自分の欲求は実にシンプルなものである。ただ音楽に関わっていたい。音楽について考えていたい。それだけだ。

過程に重きを置いているけれど、諦めなければ道は閉ざされないとも思う。過程と結果の価値の一致を理想に私はただ為したい。