Emu’s blog

よくある日記

ただその文章の美しさに感心し、言葉を飲んだ

気怠い時間。またこの時間だ。私は中途半端な睡眠から無理矢理脱出し、揺り動いた。15時25分。以前ツイッターにも15時台の話を書いた。

15時台が好きじゃない。必ず眠くなる時間帯だから。すべてが気だるく流れていく。授業中は意識が遠のいて夢を見ているような感覚になるし、働いている時は手を動かしているのに生きた心地がしない。この時間帯に集中できたらどんなに作業が捗るだろう。しかし時はお構いなしにだらりと流れていく。

 

何もない日の15時台はさらに酷い。怠惰に怠惰を重ねたような重々しい空気に襲われる。時間が止まってしまったかのように何もかもが遅い。そしていつもマラソンをして疲れ切ったかのような体のコンディションになり、苦しくてたまらなくなる。

 ああ、同じ瞬間なんてないのに、日常においてなぜ「同じ」だと思ってしまえるのだろう。時計がいけない。時計が発明された背景はなんとなく知っているし、把握しているつもりだけど、感覚が「いらない」と言ってくる。いらない。現に私の寝室には時計がない。私の寝室はホテルのようなものだった。情事と眠る時以外出入りしないのだ。本棚はあるけれど、手にとってそこで読むためにはなかった。本はPCの前で読むからだ。寝室という空間にはベッドひとつあれば良かった。他は余計だった。だから、寝室にあれこれと置いている今の状態には違和感がある。ホテルの部屋のように時間を忘れることができる寝室に私は愛着があったし、…本当はここでもっともっと良い思い出を重ねたかった。

神経をすり減らした翌日、それが今日になるわけだが、日常の過ごし方さえ分からなくなっている。何かしないと時間が経たない気がして、作らないでおこうと思っていたのだけど結局クッキーを焼いてしまったし(いや焼かされたといった感じだし)、多少は結果的に楽しめたチャットも半ば強制的にやった節があるし、LINEも返事をしなければならない意識に突き動かされてやった気がする。相手には申し訳ないことをしたかもしれない。でも、私が全くやりたくなかったというわけではない。この微妙なニュアンスは筆舌に尽くしがたい。

画面の前でぼんやりしていたら、苦手な15時台が終わっていた。あれだけ怠さに押し殺されそうになっていたのに、それが次第になくなっていくのが分かる。「やあ」とやってきた16時さんは、どこか物悲しくて少々苦手なのだけど、同時に希望の光でもあった。

さて、ここで少し書くことについて話したいと思う。我ながらすごいなと思うところは、あまり読者の目を意識してない点にある。良いか悪いかはさておき(多分両方)、これをやりたくてもできない人が一定数いることを考えると、なんだか自分だけ宙に浮いているような気がしてしまう。今日とある人のブログを読んでいて、はあすごいなと感心した。書くために書く内容を探してしまうということ。読む人を意識して書こうとしてしまうこと。私はそんな事態になったことがおそらく一度もないのだ。もちろん0ではないと思う。私の意識のどこかでは読み手というものが存在しているだろうし、反応をもらえることは楽しみにしているのだが、「反応をもらうために書く」ということがほとんどないことに最近気づいた。書く時は意識がこう、ぶつっと切られている感じがする。普段は面白いことを書きたいとか、反応がほしいという意識はまああるのだけど、書く時になるとそれがすーっと抜け落ちてしまう。読み返した時に自分が面白いと思えるものしか書いていない。

だから今日もこうやって、15時台の怠さと、書くことのメモなんかを日記に書いている。自分にとっては書くべき内容だったから。しかし、他者というものを意識した時、あまり面白くないのでは?という感じがする。15時台の怠さや書くことなんてどうでも良いだろう。そうなってくると、何が他者にとって面白いのかを考えて書かなければならない。非常に苦しいことだと思う。「他者」とはあまりに漠然としすぎているからだ。この人のために、とかこの人とこの人が読める内容にしよう、と具体的に読み手を推定できればもっと書きやすくはなる。けどやはりこの方法では精神衛生的に良くない感じがするので私はやらないと思う。

今日ふっと思った。人は思ったほど他人に興味がないのでは。と。自分に関心がある。自分のことと照らし合わせることができるから、他人の書いたものに共感することがある。その相手に、相手の書いたものに純粋にぐっと惹かれることなんて滅多にないのでは。だから、この間の読書体験は非常に貴重なものだったと改めて思う。あるフォロワーさんの記事。感想は本人に伝えたので割愛するけど、それは本当に良い記事だった。本人的にどうだったかはさておき、私にとっては人生で数回しかないほどの貴重な体験をさせてもらった。何度でも読みたくなる文章。ただただその文章の美しさに感心し、言葉を飲んだ。と同時に書きたいという欲を掻き立てられるものだった。

やはり良いと思うものにはそれ相応の時間がかけられているので、このブログのような日記という記事ではそういった魅力は出しにくいのだと思う。私もいつか書きたい、書かなければ、という気になった時に時間をかけて丁寧に言葉を綴ってみたい。