るんるんで予約したものの、なぜか行くのが憚られるもの。美容室。重い体を起こし、シャワーを浴びて準備をした。昨晩お酒をやってしまったので、コンディションは最悪だった。顔が浮腫んでいる。胃が何か落ち着かずにゾワゾワしている。そしてとにかくだるい。また嫌だな、と思いながらベースメイクをする。そしてポイントメイク。
だるい。どうしてこうもメイクには工程が多いのか。なぜそれを普通の人たちは何食わぬ顔で平然とやれるのだろうか。電車の中でメイクをする人たちは特にすごい。それは皮肉でもなんでもなく、本当に技術的に高いように思えてならない。揺れ動く電車内でアイラインを引くなんてどんな訓練をしたらそんな高等技術を使えるのだろうか。そんなことを考えながらだるいだるいメイクを終えて、なんとなく生活を送れるようなコンディションへ次第に変化していく。
指名はあえてしない。このお店の中で誰が自分に1番合っているかを知りたくてずっとしていなかった。でも、もうほとんどのスタッフにカットしてもらったので、そろそろ選択しても良い頃合いだ。今日は前回と同じ人だろう、と安心しきっていたら、見たことのない人がやってきた。ああ、そういえばスタッフ一覧に載っていたな。
接客が異様に冷たい人だった。すごく機械的に、お決まりの文句で会話をする人。「今日はお休みですか」仕事中に来るわけないだろうと思うし、もし仕事してない人に当たったらなんて切り返すのだろうと思いながら、「ええ」とにこやかに答える。このにこやかに答える自分が嫌いだった。その上「◯◯さんのお名前って珍しいですよね」などと話を続ける。これじゃまるで話がしたい人みたいだ。私は全く話したくなかった。施術内容に不満はなかったのでまあ良いけど、リピートはなしかな、と思った。帰る時、初めてその人の顔の造形をまじまじと見た。あまり格好良くはなかった。だからなのか目が死んでいた。
ここ数年は複雑な活動を続けているし、複雑な心境でいることが多い。何の話かというと複数の人と関係を持つということ。いわゆる…言い方はいろいろあるが、どうも自分にはピンと来ていない。そんな不純さが自分の中にないからだ。今の彼にこの記事が見つかっても良いという気持ちがあるから今ここにはっきりと書いておく。
もう最後になるかもしれない餃子を彼のために作っていた。歌が頭の中で流れる。「こんなにも穏やかな終わりがあるなんて不思議ね」本当に穏やかな終わりがあるのだな、と思う。穏やかなのは自分だけで、彼にとっては違うものになるだろうけれども。想いが尽きたわけではないのがややこしい。尽きていたらもっと美化して小説にでもできてしまえるのに、好きな気持ちは変わらない。何か、好き以外の何かが枯渇しているのは分かる。それは付き合い始めの熱情だったり、ときめきと呼ばれるものだったりするのだろうけれども。でもそんなものなくたって良かった。この関係が続けられるなら続けたいという気持ちもある。でも、彼の性質と私の性質が合わない、彼に受け容れてもらえない。ただそれが苦しかった。ずっとずっと苦しくて、これからも苦しまなければならないのなら、そして彼に知れた時に彼が苦しい思いをするなら、どうしてこの関係を続けられるだろうか、いや無理だろう。私はきっとうまくやれるけど、そういう問題ではない。彼も知らずにいれば苦しまずに済むが、そういうことではない。
次の彼を想いながら餃子を包む。美味しいと言ってもらえるのだろうか、というかいつ作る機会に恵まれるかもまだ分からない。前途多難すぎる、と理性がいう。でも、それを覚悟していた。いろんな覚悟があるけれど、この覚悟は私の人生の中でそうない覚悟であるに違いなかった。次の彼を想いながら、今の彼に連絡を入れる。「仕事遅いの?大丈夫?」そんなことももう日常茶飯事だった。これまでもずっとそうだったのだけど、今若干の違和感を伴っているのは、そろそろ複数と関係を持つことに疲れ始めているからだろうか。サガンの『ブラームスはお好き』のラストに出てくる「私はおばあちゃんなの、もうおばあちゃんなのよ」みたいな感じのセリフを思い浮かべる。分かる。私もいい加減おばあちゃんなのよ、と言いたい。ふっとここでなぜかその前の人の温もりを思い出す。ああ、どうしてあんなに温かかったのに、突然私の心は冷え切ってしまったのだろう。切なくなる。でも、私は幸福だったし、今でも幸福に違いない。
楽しい時期はあった。楽しい時というのは複雑に絡むポリフォニーを構築できた喜びを掴んでいた時。多分それはある意味残酷極まりないことなのだけど、私はそれを子どものように眺めている節があった。躁のせいもあった。そうでなければ、鬱のときにあんなに苦しむことはなかっただろう。自分の為すことに責任を持てずにいた。でも今は違う。今後どうなるかは分からないけれど、きちんとしたい思いがあった。「きちんと」というのは道徳的にということではないし、世間からズレる決意をしたばかりなので、世間の常識やら規範とやらに沿いたいなどという話ではないのだけど。自分の中の正しさをもってきちんとしたい思いがあった。関係してくれる人を出来る限り傷つけたくなかった。だから事実を知ってしまうと苦しんでしまう彼のことは解放してあげたかった。そして自分自身解放されたかった。
残り少ない彼との時間を楽しみながら、前の人のことを惜しみながら、今の人を想う様子は実に滑稽に違いないし、非難されるべき状態であるのは承知の上で、私は今を生きている。以前一緒に包んで食べた思い出を振り返りながら、1人で餃子を食べた。