Emu’s blog

よくある日記

ビロードに浮かぶ雫

刻々と時間が過ぎてゆく。今まさに愛おしい記憶の生成を目の当たりにしているところでした。この上ない幸福であるのと同時に、それが脆く、すぐに失われる可能性を持っていることに私は些か不安や悲しみを抱きながらそこに佇んでいました。喜びに打ち震える体をぎゅっと抱き締めると、内側から熱が溢れるように発せられ、それを感知されるのが恥ずかしくて彼から目をそらし、少し距離を取ろうと動きます。しかしながら、その一部始終を見つめられていたので、全く隠し通すことができなかったのです。

「熱いの…」

「うん」

白旗を揚げるように率直な体の変化を呟くと、やはり気づかれていた、ということを嫌でも分かってしまったのですが、喜ばれたり、茶化されたりというリアクションがあるわけでもなく、そのリアクションがないということによって私の心は平静を取り戻す機会を得ることができたのでした。平静といっても先ほどの妙な緊張とはよそに、興奮という作用が体を支配していたので、胸の高鳴りは止むことがなかったのですが。溢れる熱を隠そうとした時、相手を騙してしまうようなそんな罪悪感に襲われたこともあり、隠すことで一体どんな自分を保ちたかったのだろうという考えが過ぎったのでした。後から考えればそれは何事にも動じない自分を演じたかったのだろうと思ったのですが、全く相手にも自分にも得のないことになるだろうと、考えれば考えるほど咄嗟の自分の行動が支離滅裂としていて滑稽に思えるのでした。

彼は照度を変えたり、音楽を消したり、テレビを消したりと元あったものを細かに変えていました。それは、誰もがするような雰囲気づくりではあるのだろうけれど、もっと何か思考されたゆえのものである気がしてなりませんでした。その光景をその時は「不思議だなあ」と呑気に眺めていたのですが、後になると理に適っている、つまり、合理的な判断だったと感心しました。実は私が常用している薬が注意力を散漫にさせるものだったのです。私の意識は普段おかしなところにまで向けられていて、後に振り返った際はその部分が強調される性質がありました。例えば躍動的な何かがあれば、対比として部屋の無機質さに意識がいき、記憶としてはその無機質な感覚だけが手元に残るようになっていました。実際、部屋に入って始めの1時間ぐらいは意識があちらこちらに散らばり、箱庭の砂の上に様々なサイズのキラキラとしたビーズを投げ散らかしているようなそういう精神状態でした。甘い時間に行為を重ねようとしても、容赦なく過ぎていく時間に気を取られてしまい、時間を見ずにはいられなかったり、目の前で繰り広げられている出来事より、その一寸先ならまだしも、もっと先の未来のことを予感しては「集中していないな」と冷たい目でこちらを見る自分に指摘されて、反省したりするのでした。定点カメラを通して世界を見つめる自分というものの存在がこの時ばかりは鬱陶しく思えるのです。小学生の頃からクラスメイトに「雲の上の人みたい」と言われ続けて育った私は、自分の行動がそのように相手に思わせていることに気づくのは容易だったのですが、どうやっても俯瞰している自分というものが自分の中に存在していて、潰せないことに苛立ちを覚えていました。没頭できない。それは苦しいことでした。人はなぜ人を馬鹿にするのでしょうか。自分が優位に立てなければその場にいられないようになっているのでしょうか。人を馬鹿にする自分の存在をたまらなく嫌になりながらも、その俯瞰する自分と暮らし続けた私は、自分の一性質としてそれを甘んじて受けるしかなかったのです。最近になって自分というものが薄まりつつあり、ゆえにその苦しみを感じることも少なくなったのですが。

彼の「雰囲気づくり」のおかげで自分との戦いは徐々に減衰していきました。「集中してないな」と指摘してくる自分がひっそりと息を潜めたのです。部屋に入る前にコンビニに寄り、買い物をしていたので、テーブルには食べ物や飲み物がたくさん置かれていて、先ほどの箱庭の名残りをそこに見ることができます。コンビニに入る前、道を歩いている時も数日前からも私の「計画」の中では「おにぎりを買おう」という意識が強くあったのだけれど、彼と会い、コンビニに入った瞬間にその記憶は消し去られていました。「ここはパスタが美味しいの」という自分のセリフに引っ張られたのか、パスタを眺めると急にたらこパスタが食べたくなり、手に取りました。そして彼も「自分もたらこパスタが食べたかったんだ」と同じものを手に取ったのでした。このように、たまたま同じものを選ぶということがこの後3、4回繰り返されたため、私は「運命だね」という安っぽいセリフが喉元まで出てきては、引っ込めるということを繰り返したのでした。たらこパスタをいただいて、氷をグラスに入れました。そこにジンを注いで、サイダーで割り、軽くかき混ぜるとやはりそれは透明でしたが、アルコールのモヤモヤが僅かに見えていました。久しぶりに飲むジンの味に昔の記憶が甦りそうになったのですが、幸福な時間にとっては余計なものでしかなかったので、その記憶たちと戯れることはしませんでした。モヤモヤの中に虹色の世界を見、彼の文章の世界がチラチラと見えています。それを飲み干すとはなんて心地良いことだろう!思いの外甘ったるくなったジンはゴクゴクと飲むには濃く、ちびちびとやるには薄かったので、早すぎず遅すぎず緩やかなペースでなくなっていきました。

お酒を飲み干した頃には私たちはすでにもう蕩けきっていて、互いに相手の体内を巡り巡った後でした。残っている記憶におかしな部分はありません。対比効果に興奮する自分はそこにはもういませんでした。彼のおかげで私は彼を見つめることができたのです。目に見えるものも見えないものも、手に取るように「分かる」感覚がそのときありました。同時に、「見せたい自分」が消失して何もかもを見られること、見透かされることを恥ずかしがらない自分がいました。つい数時間前まで隠そうとしていたのに。

幸福な時間が幸福な記憶へと移り変わることには悲しみがつきものです。「今が名残惜しい」と呟く彼に共感しながら、部屋を出て、夕食を食べるためにお店に行きました。そこで食べながら私はふとサイダーを思い出したのです。サイダーが一本、全く手をつけられることなく部屋に置き去りにされていました。もし、私がそのサイダーの存在に気がついていたら、ジンをもう少し飲んでいたかもしれない。でもそれはきっと、「買ったものはすべて消費しなければならない」といった義務感だとか、理性のようなもので、あの場には相応しくなかったかもしれない。

幸福な時間が完全に記憶へと移行した後に私は夢を見ていました。防水スプレーによって吸収を塞がれたビロードにサイダーを垂らしてその雫の塊をじっと見ている夢でした。弾かれた雫はいつまでもそこに留まっていて、まるで別れた後の孤独感でした。どんなに願っても雫はビロードの中に浸透することはないのです。でもそれは防水スプレーをかけられたビロードであって、防水スプレーの、強靭な膜が破られたらきっと雫はビロードに吸収されるはずなのです。そう、「あの時」はその膜が破られたのです。すかさず「集中してないな」と指摘した私が「それは錯覚だ」と冷たく言い放ちますが、どこか投げやりになっているのが分かります。「現実」では、1つになるなんてことは不可能であると言われていますが、元々は防水スプレーのかかっていない状態に人間はあったのではないか、という考え方もできます。つまり、自我というものが薄まった状態では周囲のものと一体になれるのではないでしょうか。その時、いいや繋がっていない、と証明できる術はあるのでしょうか。

きっと、普段は防水スプレーがかかっていて、ビロードに浮かぶ雫はそれゆえに煌めくのです。他者によって孤独を感じ、そしてまた他者によって愛を感じるのです。そして私達を分かつ強靭な膜が肉体とともに破られるとき、肉体と心、人と人はビロードとそこに浮かぶ雫の関係のようになります。雫がビロードに浸透し、濃く深い色合いへと変化します。

彼の声を聞くことで、彼の様子を思い出します。柔らかくて温かな瞬間が甦るようです。感謝という感覚とは違うのだけれど、彼のおかげで私は生き生きとすることができる、というのは明白な事実です。私には「貴方なしでは存在できない」という感覚が未だによく分かっていません。けれども、貴方を見つめることと同じ方向を向いて歩くことを両立したいと願っています。そして、今眠る彼の頬に口づけをするようにそっとこの文章を彼の生活の側におきたいのです。

彼の肌の感触や、色や、温もりや、欲望や愛がすべて混ざり合って透き通っています。そう、様々な色が混ざり合うことで光となるのです。生の対極が死だとするなら、好きの反対は虚無になるのでしょう。私はそこに違和を感じずにはいられないのです。在るということを受容するとき、私たちはその対象を幾分か捻じ曲げる癖があります。透き通っている彼のすべてが私には心地良く、しかし、それさえバイアスがかかっていることを認めざるをえないのです。それを踏まえた上で彼の存在は受容し肯定するまでもなくそこに在るということに意識を向けたいのです。これから何度もその感じ方の癖によって私たちはズレたり、衝突したりするのでしょう。でも、互いが在るということに結局は救われる気がしています。滑らかなビロードに何度も雫をこぼしては、一体となる夢を見、そしてそれをある日、夢でなく現実であると認めたいのです。