Emu’s blog

よくある日記

「記憶」

眩い日差しの下、草花をキャンバスに描いた幼い君は
その光景が脳裏に焼きつき、何十年と反芻することになるとは露程も思わなかっただろう

おぼつかない心のままにみんなと歌ったあの日も
もう二度とやってこない輝かしき日だとは自覚していなかっただろう

苦しみを押し殺し、歯を食いしばりながら通ったあの道は今も変わらず
君に帰る場所を与えてくれた

日中閉めきられた校門の向こうは明るい
音楽室の子どもたちの歌声も
グラウンドで弾ける笑い声も遠く聞こえて
甦らない日々を知り
積み重なった時間を抱きしめて
私は小学校の側を通過した

「細部に宿るのね、神」と思いながら音楽を聴いていたり、本を読んでいたりする

自分は熱心な仏教徒ではないのだけれど、
他宗教の良さを力説されればされるほど、仏教に立ち返ってしまうのだった。
おそらくそれは理屈として仏教が良いと判断しているのではなく、
自分がそのような地盤、文化圏で生きてきたからだと思う。
文化として一宗教の教えを大事にしたい、守りたいと願っているのだろう。

しかし、異なる宗教について力説されると物悲しくなるのはなぜだろう。
人と人との分かり合えなさは、すでに感じていたことなのに、
なぜか断絶を強調されているように思えてしまってならない。
遠い異国の地の宗教のように感じてしまうものについては、
どこか他人事のように思えるし、懐疑的になってしまう。

例えば、人間は神の前においてのみ平等である。という感覚が自分にはない。
理屈としては分かるかもしれない。
人を超越した神から見れば人間は平等である。それはそうだ。
ただ、何かあったときに「人は神の前では平等だからな」なんて思えない。
そもそも自分には神はいないのだ。思えるわけがない。
仏様とは、仏陀のことであり、悟りを開いた人を指す(と思う)。神ではない。
だから、神の分からなさに苦しんでしまう。
昔から神についてはよく分からなかったし、馴染めなかった。(神道的な意味だとしても)。
宗教画に描いてあるような縁遠いもの、分からないものという感じだった。
仏様という概念は幼いころからあった。分からないけれど、手を合わせていた。
わりと身近な存在だった。何かにつけて仏壇に座らされ、ナンマイダーと唱えていた。毎日手を合わせているわけではなかったけれど、
「仏様が見ている」という感覚はなんとなくあった。神ではない。
最近葬儀を初めて経験したら、仏様の存在が近くに感じられるようになった。
上手く説明できないけれど、仏教が自分の中で腑に落ちた。
自分が死んでも大丈夫、みたいなほっとする感覚があった。
これが人のつくった死の恐怖に打ち克つための宗教なのか、すごいなとも思った。(ちょっとメタ的だけど)

だからなおのこと、神が分からなくなった。
信仰とは別に他宗教についても勉強はしたいと思う。理解したいと思う。
神を知りたいと思う。
でも私は神がどんなに優れていても、仏様が良い。ずっと連れ添ってきた仲のような感じだから。
お別れするには遅すぎるぐらい考え方も染みついているだろう。

 

ただ、一つだけいいなと思うのは、仏様は細部には宿らないけれど、神は細部に宿るらしい。

その感じはなんとなくわかるし良いと思う。僅かな違いが大事だとあの人も言っていた。それはその通りだ。

「細部に宿るのね、神」と思いながら音楽を聴いていたり、本を読んでいたりする。多分私と神の出会いはそこから始まりそこに終わる気がしている。

「春」

用水路に棲まうメダカの群れより

外れるメダカがひとつ、ふたつ

次第に増えてはまた小さな群れとなり廻る

 

人のゆく宛は元よりあるか

堆積する時間感覚の中に生きる旧い者たちの

夢見る発展形のなかで逸れる者がひとつ、ふたつ

次第に増えては群れとなり立ち止まる

 

何に言われるまでもなくゐる確固たるわたくしは

何に言われるまでもなくゐてほしい貴方方の微笑みを

乞いて乞いてたまらず野の花に託す

 

誰に見つけられるでもなく

ぽつねんとして咲くわけでもなく

淡淡と生きて、生き抜いたどこかのそれが

わたくしに語りかける

燦然とした

何に言われるまでもなくゐる姿を以て

静かな日だまりを連れてくる

冬の終わりの長い雨

日常をしたくなくなった。幸福に浸りたくなくなった。鬱だ。脱力して、何もできなくなる。いつものように目覚めるのが嫌で、目覚めると絶望した。いつも通りを押し付けてくる日常が嫌でたまらなくなった。かといって非日常を愉しむ余力もない。力なく横たわり、無機質なスマホの画面を触って、チカチカ光る絵や文字を眺める。

憂鬱になると、私は自然を欲する。草木を育てることがしたくなる。実際に憂鬱な時限定で育てるなんてことはできないので、嫌々スマホの育成系のアプリを入れて操作する。こちらの感情や思考を気にせず、どんどんとその対象物は育っていく。少しだけほっとする。

世の中が自分ひとつで何も変わらないことに安心することがある。もし、自分がいつものように動かなければ回らない世の中だったら、鬱に浸ることもできずに、場合によっては死を選んでしまうかもしれない。理由のある死はなんて小さいのだろう。理由がなくても自分の死とは、自分にとって小さいものだけれど。

ある医者曰く、食欲がないという状態は何も口にしない状態ではないらしい。食べたい物がない状態でとりあえず口に入れているという状態も食欲があるとは言えないらしい。グレーゾーンというやつだ。私の今の状態だった。食べ物を口に入れて何になるのだろう等と普段思わないような面倒臭いことを考えながら何かを口にする。何だったのか覚えていない。

どうして皆そんなに生活することができるのか不思議でたまらなくなることがある。時には頑張っているという自覚をし、苦しみながらしている人もいる。何かのためにしている人もいるし、自己目的的な人もいるかもしれない。人の行動のすべてが不思議に映ってしまう。典型的な鬱の時の思考だなと書きながら感じる。

調子が悪いのを冬の終わりの長い雨のせいにしている。しかし、これだけ文章を綴る元気がまだ残っているので、この鬱もそう長くは続かないだろう。回復するまで耐え忍ぶだけだ。

こんなに憂鬱な時でも書くことをやめなかった。少しだけ音もいじった。少しずつだけど、前よりも抵抗なくできることが増えてきた気がする。読書はまだまだ抵抗があるけれど、諦めずに触れていればきっとまた昔みたいに読める日がくるだろう。それまで何度でもやってみる。できるようにならなくても。意味なんてなくても。

思いはどんどん記憶に埋もれていく

 虚構について語れたら楽なのになと思ったり、現実について語れたら楽なのになと思ったり、私はとにかく思うことで忙しい。そうして何も語らないまま思いはどんどん記憶に埋もれていく。

 あの人と連絡が取れてないとか、この人に連絡しなきゃとか、そういう関係性云々を考えることに疲れてしまい、新年の挨拶も上手くできないままに2019年が始まった。世間的には「始まった」のだけど、私の中では何も始まっていないので挨拶しなくて良かったかもしれない。もちろん抱負なんかも語ることはしない。前から切に願っているのは、心身の調子が安定すること。

 「感情を大事にしない人がいる」と表すことができるように、「感情以外を大事にしない人がいる」とも言えてしまうこの言葉の便利さに私は少し戸惑ってしまう。これは例であるので、他の事柄でも良いが、今日たまたま話したことがこの話だったので出してみた。感情に溺れている人も、それを取るに足らないものだと削ぎ落としてしまった人も苦手だ。しかし、そんな極端な人はそういない。私の周りには僅かにそのような人達もいるので全くいないということもできないのだけれど。また、おそらく私が考えるような「感情を大事にしない人」「感情以外を大事にしない人」と形容できる人というのは少ないのだけれど、言葉として成り立ってしまうと、どうにも現実味を帯びて良くない。つまり、世の人々がそのようなタイプに綺麗に切り分けられるような感じがしてしまう。

 言葉に振り回されるのは言葉を扱う人すべてに起こりうることではあるのだけれど、起こりやすい人の特徴として真面目であることが容易に想像できる。(自分でいうのもなんだけれど、私は真面目な部類だと思う。限定的な真面目さだけど。)この言葉に振り回されるという経験なくして言葉をきちんと扱えるようになるのだろうか、と思う。時折言葉に遊ばれながらも真摯に向き合い続ける人こそ、言葉の世界で言葉の可能性を拡張しうる存在になれるのではないか。

 このように言葉についての話をすればするほど、ある種の胡散臭さが漂ってしまうのは、言葉とモノの関係に着目すると分かることかもしれない。言葉はモノについて表すことができるけれど、モノの存在そのものではない。つまり書き手の認識や解釈が必ずといっていいほどついてくる。名称にはそういったものは付きにくいかもしれないが、やはり完全に書き手の意図を削ぎ落とすことは難しい。そういったことがマイナスに働くとき、言葉は嘘になり胡散臭くなるし、良い方向へ働けばその虚構を通して人に様々な働きを生むことになる。

 とまあ、私は今ここで言葉についての話がすごくしたいというわけでもなかったのに、話してしまうほどには言葉の力を信じているのかもしれない。

 今日は日本らしさについて、とりわけ音楽における日本らしさって何だろうと昔考えたことを軸に少し考え直した日だった。内容はTwitterに書いたので気になる人は見に来てほしい。

 最近考えていることなら他にもあるのだけれど、愚痴っぽい内容になるので控えたい。他にも今のこの状況を赤裸々に、具に語るということもできなくはないけれど、いつもと同じカラーになるのであまり気が進まない。がらりと違う話をしようとすると、完全に虚構になる。どうしようもない事態だ。本を読んで感想を言うぐらいしかできそうにないが、感想が言えそうな本を読んでいないという問題がある。

 本といえば、大好きなエンデの『はてしない物語』の電子書籍版を購入し、スマホに入れた。これでいつでも好きな文章が読める。スマホで読むと、紙で読むときよりどうやら負荷が少ないらしく、病気で読みにくくなってしまった私でも少し読みやすい。どうしてなのか分からないままだけど、電子書籍でも良さそうなものは電子書籍を利用したいと思う。読もうと思っている本が専門書ばかりなので、劇的に状況が変わるわけでもなさそうだけど。

 そういえば冬用にもこもこのパジャマを買ったのだけど、やっぱりもこもこは可愛くてあったかくて最高だった。いくつになってももこもこパジャマはやめられそうにない。

きっとその時は突然やってくる

 どうしても離れられないのは、私の好きなコード進行を使っているからで……と言い訳を頭の中でなぜか考えながらある音楽のことや彼を思ってしまう。「思う」というのはあてもなく空を旋回しているような感じであって、何かこう、ときめきを持ったり、あるいは憎悪などの感情を寄せたりという類ではない。ゆくあてを失くした感情はただ冷めていくほかない。過去は夢と大して変わらないほどに脚色されてしまった。彩度を上げすぎた写真みたい。

 作ることを暫く休んでいるけれど、何もしていないわけではない。勉強を少しやっている。今日も耳コピをして久しぶりにコードに向かっていた。コピーする前から分かっていたのだけど、この曲が私に対して妙に説得力があるのは、コード進行と伴奏部分の流れ方が私に馴染みのあるものだからだ。それでも、何か他に見落としはないか、どうして好きなのかを考える。細かい部分で好きなところが見つかる。でもより良くできる気もしていて、私は記憶と共に書き換えたくなる衝動を抱いている。

 具体的にいうと、好きな人と「この感覚」を共有したいという思いがある。「この感覚」というのは、単に音楽を一緒に聴きたいというものではない。聴くことで得られる気づきや幸福といったものと言えば良いのだろうか。作品から見出した煌めきを、一緒に発見したい。理想が高すぎると言われるかもしれない。でもきっとこの人とならできる気がしている。そうしてこの音楽にまつわるエピソードを閉じてしまいたいのだ。私は前を向いているのだから。

 永遠にそこから抜け出ることのないような循環コード的な音楽を違和感なくいじれる方法を探している。生活、時間においてもそう。回る環から抜け出したい。時間意識を解体したい。けれども、一歩が勇気のいることで、その後体力が持つのかという不安が拭えない。臆病というより、すでに疲れて弱りきった躰でどうやって生きれば良いのか分からなくなっている。回復を待っていたらすでに長い年月が経ってしまって、このまま弱っていく一方なんじゃないかという不安が募る。

 どうやっても人を傷つけてしまう、そして現在進行形で人を傷つけている。その現実の重みを私は受け止めきれずにいる。ユートピアなんて虚構の世界でしかあり得ないのだろうか。愛してくれる人を傷つけてしまう辛さに皆が堪えているのだろうという想像をすると本当に強かな人たちだと感心する。

 きっとその時は突然やってくる。不意にやってくる。周到に準備をしていたって無駄だということも分かる。だからこそ、私は今を悔いなく生きる。

鈍い苦みが充満している

 苦玉を口の中ですり潰している。今ひとたび失ったものについて動かぬ頭でぼんやりと考える。この苦さでは目が覚めない。目覚めたくもない。少し前では考えたくもなかった。考えたくない時は抜け殻のような人と抱き合えばいい。揺られている腕の中で思い出す風景を反芻しながら生易しい夜を過ごすのだ。感傷的な気分から垣間見えるナルシシズムを呆れ顔で受け入れる。

 他者から逃げている。自己からも逃げている。感情には煩雑さがない。ただ筆舌に尽くしがたい何かがあるだけだ。関係性とそこにぶら下がる感情の多さを一括りの様態として捉えようとする場合に煩雑さを思わせる。一つ一つは明瞭な形を保持している。

 突き放してしまった元友人や元恋人のことが浮かび上がってくる。そっと離れていった人たちも人形のような姿で私の周囲に佇んでいる。顔はよく見えない。彼らを良く見ようとすれば盲になったような感覚に陥る。

 がらんどうのようなだだっ広い心の中で叫び声をあげる人がいる。始めはひどく反響して頭を痛めてしまうほどだ。やがて少しずつ小さくなっていき、何もなかったようにまた静かな状態に戻る。悲鳴をあげていたその人も、徐々に声を出す気力がなくなり、終いには黙りこくってしまった。跳ね返ってくるとはいえ、たった一人の声しか聞こえないのだ。「無意味だ」とその人は悟った。反論してくれる者もいない。

 のろのろと動く頭とは裏腹に脈だけが速い。何に怯えているのだろう。人の怒りに怯えているのだろうか。ではなぜそんなにも怒りに触れることが怖いのだろう。思い返してみても良く分からない。おそらくトラウマがある。いつくるか分からない良くない出来事に怯えながら、さらにその次の展開にも怯えている。ゲームではないのだから、読めば読むほど良いものでもないのは分かりきっていることなのに。

 結局あらゆる気力を失くして横たわる。鈍い苦みが充満している。