Emu’s blog

よくある日記

微睡みの中で確かに温かなものが私の体に触れている

微睡みの中で確かに温かなものが私の体に触れている。触れているというより、体全体を包み込まれているような心地である。髪を撫でられている感覚もぼんやりとあって、それを感じながら私は快く眠った。時間にしてほんの十数分の出来事だったかもしれないし、もう少し長かったかもしれないが、その快い時間は永遠に続くかのように感じられた。この時が止まってしまったかのような時間は、そう頻繁に起こるものではない。

そんな稀有な時間を思い出しながら、今日の穏やかな日を過ごしている。「蛍…。」なんとなく声に出してみるが、それが何を意味しているのか、自分でも判然としなかった。そのようなタイトルの音楽を作ったこともあれば、文字通り虫のイメージを想起しても良いしあるいは……。あるものによってすべてが1つの線で繋がるのを知っているけれど、それを表現することを避けている私がいるということによって、一体何をしたいのかやはり掴めぬままだった。つまり、その、「好き」なのかもしれない。と嘘をつく。ひどくあからさまな嘘をつくことで、私は何をしたいのだろうか、やはり分からない。この日記を読む人に向けて「こうである」と伝えたいことがあり、いつもは当たり前のように伝えているつもりなのだけれど、今日はその断片をちらちらと見せながら全体を覆い隠してしまいたいようだ。ややこしい性分である。

とある人の呟きが、私の意図の外側にぽつりぽつりと降ってきた。その的外れな言葉たちは、何を表しているのだろうか、私には見えてこない。ただこちら側にいる者にとっては、どうにも肩を竦めるようなことであり、響かない言葉は宛ら雨のようである。ずれてしまった言葉たちの、僅かな知性の可能性を信じたくて、私にはたまたま見えてこなかっただけだと言い聞かせるも、その言葉を発した者の知力のなさを揶揄したい気持ちは僅かに燻っていた。人はなぜそうやって核心に触れ得ない言葉を降らす雲を一掃したがるのだろうか。快晴に空虚はつきものだと言うのに。

ある時、ある人が私の好きだった音楽を聴いていた。青春時代に私という器に共鳴した音楽たちである。血液検査を受けているようなそんな感覚になった。言い換えると、体の中を覗かれているような気分になったのだ。一音一音が私の中に降り注いで、私という人が形成されるときに大いに影響を与えたに違いない。その音楽たちを他の人が耳にすることができる。当時の私が感じたようには感じないにしても、同じものを共有するということはどこかこっ恥ずかしくもあり、嬉しくもあった。今となっては批判の目を向けていることを明かしたい気持ちを抑えながら、なるべく鑑賞の邪魔にならないように言葉を投げかける。そのように心がけると、ウィキペディアで調べれば出てくるような事実を並べ立てることしかできないことに可笑しくなり、話すのをやめてしまう。その人は公平な目を向けてくれたのだろうか、結局のところよくは分からないのだけど、聴いてくれたということだけで私は満足してしまったのだった。

私の場合、逆の立場だとしてもその音楽たちを好意的な目で見ることができないことがある。自分の尺度でものを測ってしまう悪い癖があるからだ。その人の尺度でどう感じたかということより大事にしないといけないことなんてないのに、その音楽のどこが良いのか、どこが悪いのかを瞬時に捉えてしまう。当然、良いなと思ったところを見つけて話せば、共感は得られるのだけど、そうすると悪いと思った部分を隠さなければならなくなり、そこにほんの少し罪悪感が生まれる。他人の好きなものを鑑賞する場合、もっと受動的というか頭を空っぽにしてその音楽で体を満たすだけで良い。そういう意味では、私は聴き手としてまだまだなのだ。

つまり、私は私の好きだった音楽を聴いてくれたその人の好きなものをもっとまっすぐに受け止めたい気持ちがある。と、書いていて気づいた。音楽でなく、他のものならもっと容易いのかもしれないけれど、それを音楽においても達成できなければ、自分自身が納得いかないのだろう。

17時という切ない時間が向かってきている。何があるわけでもないが、私がこのブログを更新し、夕食を作るまでのその時間、なぜか自由に振る舞うことができなくなる。1日を振り返ってしまうからだ、と思うけれど、振り返らずにはいられないのだ。表現欲に掻き立てられている今、やることといえばおそらく音楽だが、振り返りながらでは良い音楽は作れないとも思う。しかし、何はともあれ手をつける。手をつけさえすれば、そこから何かが生まれるはずだから。

ふわふわと漂う海月のように

今朝は文章や音楽についていろいろと考えていた。考えていたし、ここに何か書こうと思っていたのだけど、夜になって忘れてしまった。全く短期記憶が弱すぎる頭である。やったことを書けばあっという間にこの日記は終わる。通話をして、洗濯をして、ゲームをして、編み物をして、アニメを観て、勉強をして、通話をした1日だった。こうやって書くとなんて味気ないのだろう!創作的なことをやりたいと思いながら全くしていなかったことに気づき愕然としたがもう後の祭り。本当は何か記事をあげたかった。ネタが浮かばない時点で達成される見込みはかなり低いのだけど。

お昼は豚肉のネギ塩レモン丼を作った。タンパク質を一緒に摂ると、血糖値の爆上がり及び急激な低下を避けることができる、という謎の論を持っている。科学的根拠は全くないので誰も参考にしないでほしいが、おそらく炭水化物のみで摂取するよりは栄養価的に良いので体にも悪くないはずである。そんなわけでお肉とご飯を食べたが、昼下がりに眠くならずに済んだ。タンパク質万歳。

お昼を食べながら「食べることが唯一の楽しみ」なんて言葉が思い浮かぶ時点でもういやだ太りやすい思考になっている、と考えたので、楽しみを何か増やしたいのだけど、食べたときの喜びというものは他には代えがたいものなので何かに代替するのが厳しい気がしている。お金を使えばそれなりに浮かぶものの、安価で手軽な快楽を他に見つけるとなると全く思い浮かばない。本当にこのままだと痩せることができない。誰か助けてほしい。泣き言はさておき、夜もまたこんにゃく麺で済ませようと思う。しばらく夜はこんにゃく麺で固定だろう。運動もそのうちやる。

そう、さっき引き締まったお腹を目にした時、もし1日30回程度の腹筋でこれが手に入るならやるかもしれない、と思ったのだけど、多分その程度では手に入らないのでやらないかもしれない。(なんだそれは)でも、体のためにやる行為を習慣化できたら良いかもしれないなとちょっとした意識改革が起こった。これは何かが起こる前触れかもしれない、上手く言えないけれど。

確かに筋トレや柔軟をしていた時、自分を大事にできていた気がする。ここのところ私は私というものがないことが多い。私は自分の意思で動いているはずなのだけど、その時特に私というものは意識されていないのだ。筋トレや柔軟体操はとことん自分を意識するもののように思える。運動といってしまえば、我を忘れる瞬間もあるから必ずしもそうだとは言えないのだけど。私は自分を意識するのが苦手らしい。良いことなのか、悪いことなのか、良く人に指摘されることでもある。

まだ書きたい気持ちはあるのだけど、夜の支度をしなければならない。残念、終了、また今度。

 

ふわふわと漂う海月のように、私はただ流れていけたら良いなと思っているのに、人生は私を浮遊させてはくれない。笑顔で別れたいのに、きっと現実では相手が笑顔になることはなくて、私は寂しい気持ちのまま終わりを迎えることとなるのだろう。

風邪をひいたかもしれない

風邪をひいたかもしれない。喉が痛い。でも、喉が痛いだけで熱はないし、鼻水も出ない。風邪をひくのは3年ぶりだろうか。月2くらいで風邪をひいていた私が、双極性障害になった途端に丈夫になったという謎の現象が起こっている。双極性障害になって以来、風邪をひくのは2,3年に1度。遠くへ行ってしまった友人と久しぶりに再会するような、そんな感覚になってしまう。つまり、風邪さえ愛おしい。

煮物を作っている。煮物を作るのも久々でこれまたテンションが上がってしまう。ぐつぐつと白菜や厚揚げなどを煮ていると、良い匂いが部屋中に立ち込める。その匂いで母の料理を思い出す。実家で煮しめばかりが出てきた時はうんざりしていたけれど、実家を離れて洋食が多くなると、和食というものの価値が一気に跳ね上がった。どうも和食は掴みどころのない料理な気がして、敬遠している。和食を作るのに必要な基盤が私には生成されてないような感覚があるのだ。だから、レシピを見て作ってもどこか自信がない。今回のレシピは煮汁がなくなるまで煮込むのか、そんなに煮込まなくて良いのか書いていないので戸惑っている。まあ、てきとうに煮汁が少なくなったら火を止めるけれども。

煮物を作る前は川上弘美の『センセイの鞄』を読みながら退屈していた。調子の出ない日だから読書でもしようかと思って読み始めたのに、調子が悪いせいであまり話を面白いと感じない。それとも本当に面白くない部分を読んでいるのかもしれない、いや、そんな面白くない部分を入れるわけがないだろう。などと頭をぐるぐると回転させながら1つの話を読んだ。それ以上は読めなかった。読もうとしなかった。

そういえば一昨日ポケットモンスターピカチュウバージョンを買ってきた。1111円というイイ値段。この頃ふとポケモンがやりたくなった。前々から初代のポケモンが売り出されていることを知っていたので、入手も容易かった。思い出補正もあり、さぞ楽しくやれるだろうという期待があった。そして昨日の朝から進めている。まあまあ楽しいけれど、やっぱり子どもの頃にやった時みたいにのめり込むことはできない。一歩引いた状態で「ここの音楽工夫されてて良いな」「今のゲームだと複雑になっているけど、このぐらいシンプルな方が自分には向いているかもしれないな」などと思いながらやっている。今日も少しだけ進めたけれど、そのうちポケモンを買ったことさえ忘れそうなので、忘れないうちに定期的にやりたい。

今日は編み物も進めた。集中力と気力がないのでほんの少し。なかなか一気に進められない。ざくざく編めたらもっと楽しいのになーと考えるも、ちびちびやるのも悪くないかと思い直す。ただ、冬に間に合わない事態になることだけは避けたい。

彼が起床した。思いの外早いお目覚めだ。一気にテンションが上がり、晴れやかな気分になる。彼がシャワーを浴びている間に飲み物をつくって、もしもし待機をしようかな。

数日前に彼と話をしていて引っかかっていることがある。小説はアニメや漫画と比較してどのように面白いのか、なぜ面白いと感じるのかという話。一言で言ってしまえば、「アニメや漫画よりもリアリティがあるから」ということになるのだろうか。昨日背景が何も見えない、展開もめちゃくちゃなアニメを見たせいで、腑に落ちそうになっているのだけれど、本当にそうなのかなと懐疑する自分も燻っていて、どうも落ち着かない。確かにそういうことは他の人からも聞いたことがあるし、何か明確に反論できる材料を持っているわけではないし、おそらく間違ってはないのだけれど、きっとそれだけでは足りないから引っかかっているのかもしれない。ただ、私の中で漫画やアニメと小説が同じ次元にない、別々の世界のものであるように認識しているので比較ができないようになっている。無理矢理N極とN極の磁石を擦り合わせようとしているような、そんな感覚になってしまう。多分私は漫画もアニメも小説もあまりに知らなさすぎるので比較するなんてこともできないのだろうけれども。

クッキーを作りたい衝動を抱えながら料理をしたようなそんな1日だった。いろいろなことに手をつけたけれど、何一つ満足できない、そんな1日だったから、今日は早めに休んで明日に備えようと思う。

私の頭の中を縦横無尽に走って延々とループする

―貴方の代わりなんていやしない

そんな歌が頭の中でぐるぐると駆け巡っている。関係性という名前のついた何かであれば代替可能であるとは言えるが、人が違うのだから全く同じような機能を果たすわけではないだろう。でも、何故だろう。頭の中を無断に行き来する言葉が気に食わない。私という意思はそれを望んではいない。つまり、音楽が煩わしい、言葉が鬱陶しい。その言葉の意味には同意するけれど、今それについて考えたいわけではない。音楽のこういうところが嫌いだった。勝手に私の頭の中を縦横無尽に走って延々とループする。

雨で濡れたスリッパを避けて、靴を履かずに靴下でコンクリートの上に乗る。雨風が強い中、洗濯物をかごに移し替えた。洗濯をするのは嫌いじゃない。まあ、洗濯をしているのは洗濯機なので、洗濯物をかごに入れて洗剤と柔軟剤を投下し、スイッチを押すだけなのだけど、この一連の流れを好ましいと思うのは何故だろうか。そして、洗濯物を干すと外が雨だろうが晴れやかな気持ちになる。実に不思議である。「靴下は履き口を上にして干すのが良い」と靴下屋という靴下を売っているオンラインショップの説明書で見かけて以来、靴下を干す時はいつもそのことを思い出す。得意げに足先を上にして干す主婦も多いのだろうなと思うと、ちょっぴり優越感を抱いてしまう。何故履き口を上にするのかというと、もし下にして水が溜まる状態が続いてしまうと、ゴムを傷めてしまうからだった。

コーヒーを飲みながらぼーっとしていると、ふと、今日特に印象的だった話を思い出す。話を聞きながら、俗世間ってそんなに嫌なものなんだろうか、もし俗世間に対して肯定的な文筆家がいるなら、それはそれで面白いことだよなあなんてちょっと外れたことを考えてしまっていた。私は社会と上手く関わっている自覚がないし、実際あまり強くは結びついていないのだと思う。自分は触れず、ほとんど傍観しているような感覚。この感覚は、時折自分の意識全体に纏わりつく。社会的な関わりどころか、人生そのものを何故か傍観しているようなそんな感じに陥ってしまうときがあるのだ。これにはさすがに参ってしまう。私は切実に為していたいのだ。ところがきっと「痛み」の少ない生活を送っているせいだろう。何かイレギュラーが起こってもなんとかなるだろうと思っているし、実際なんとかなってしまう。刃物で身体を切り刻みたい時というのはこの「痛み」を感じたい時であることがほとんどだ。鋭い「痛み」を発作的に欲することがある。かっこつきの痛みにしているのにはわけがあって、何も痛覚を刺激するものでなくても良いということだ。例えば、目の覚めるほど美味しいご飯を食べるだとか、激しい愛情を身体を通して感じるだとかそのようなことで良い。普段からそんな過剰な刺激を欲しているわけではない。人生を傍観している感覚に陥ってしまう時だけであって、日常では低刺激でも積み重なるとそれによって覚醒したり、しっかりと実感したりすることができる。できれば平和的でいたいので、感受性を鋭敏にして低刺激な生活を送っていたい。

そんなことを書き綴っていると、彼からLINEが来た。想定していた時間より随分と早い。彼がシャワーを浴びている隙に私は夕食を作って食べた。私がお風呂に入るのは後回しかな。彼中心に生活が動いている。幸福なことだ。それでも音楽を作る時間もあり、こうやって物を書く時間もある。幸福なことだ。明日はそんな時間もないかもしれないと思うと少し悲しいけれど、生活のバリエーションの豊富さもおそらく今しか味わえないのではないかと考えていて、だからこそ苦しまずに過ごせているのだと思う。まだまだ書き足りないけれど、今日はこの辺で。

変わりたいのだ

切ない気持ちがとろとろと快活さを溶かしてゆく。不安感のある状態が続く。「どうしよう」と困っていると、貴方がそっと私を救ってくれる。LINEが鳴った時、本当に「これは救いだ」と思った。ますます好きになる。

あの人の上手な部分を吸収したくて彼の作った音楽をひたすら聴き、その特徴を自分の曲に活かすという作業をしていた。でもやっぱり私らしさが滲んでしまい、結局似ているのは本当に外側の一部でしかない。そのことに喜んで良いのか不満がれば良いのかも分からずにいて、私はただずっと「どうすれば縁を切られずにこの人の音楽を享受できたか」というどうしようもないことを考えてしまうのだった。変わらなきゃいけない。

そういえば、読みにくい本を読んでいたせいか、ネットで転がっている大抵の文章には躓かなくなった気がする。以前は病気の影響もあって、読むのにかなりの抵抗感があったのだけれど、ツイッターをやっているのと、おそらく音楽美学の本を読んだせいか読めるものが増えてきた。ブログもたくさん読んでいるし、小説も前よりは触れられるようになっている気がする。昨日は音響学の本にも手をつけたし、なかなか良い傾向だ。

ブログを書きながら、彼が眠っているのを感じている。かれこれ5時間半くらい通話を繋げっぱなしにしている。なぜそんなことになったかというと、通話を切るのがお互い嫌だからだった。相手のスマホのバッテリーに影響が出そうなことを除けば気にかかることがない。むしろ、存在を近くに感じられるようでとても心地が良い。毎日こうだったら良いなあなんて思ってしまう。ただ、時折この人にとって私はファム・ファタール(男を破滅に導く悪女)になってはいないだろうかという心配をする。ツイッターのフォロワーから指摘があって以来気にしていることだった。できればプラスになる存在でいたいのだけど、一緒に居たいあまり相手のやりたいことを妨害しているのではないかと考えてしまう。それはないから、と説明を受けてもやっぱり気になるものは気になる。そもそも遠距離なのがいけないのだろう。近ければ多分そんなこと気にならない。多分。

物音がした。ああ、彼がご飯を食べに行く合図だ。通話が切れる。私もシャワーを浴びてこようかなという気持ちになる。今日はまだ時間があるから、音響学をもう少しだけ進めたい。昨日久々に手をつけて思ったのだけど、勉強はやっぱり楽しい。一生続けたい。私は人に教えるということが苦手で、できればずっと「先生」ではなく「生徒」でいたいと思っていた。だから、あの人にその態度が気に食わないと言われたし、あの人からは子ども扱いを受けた。学ぶ姿勢というのは、基本「先生」を仰ぎ見る形になる。勉強をするということは、ずっと何かを目指して這い上がっていくようなそんなものだ。音楽の学校を出たからと言って、突然教える側に回るという周りの動きに私はついていけなかった。だから、今後も誰かに音楽をきちんと教えることはない気がする。それをやるだけの知識は持っていないように思えるし、何より私は勉強をしたい側だから。勉強をするということは、何か知識を得るということだけに留まらず、目に見える世界を広げていくことでもあるし、世界を測る物差しの数を増やすことでもある。変身願望があると言っても良い。変わりたいのだ。もっともっとより良くしたい。勉強はそれ自体が面白いから成果が得られなくても構わないというのが自分の考えだけれど、やるとそれなりに成果は上がるもので、音楽を作るときに役に立ったり、人と話をする時のネタや喩えになったりする。それもまた自分の生活を豊かにしている感じがあるのでやっぱり続けていきたいなと思う。まあ順序でいうと、「役に立つとは思わずに純粋に楽しいと思ってやっていたら、いつの間にか役に立っていた」という感じなのだけど。

夜も更けた。明日が来る前に、また貴方と話がしたい。

澄んだ液体が全身を包みこんで私を浄化していくのだった

もこもこのパジャマを着ている幸福そうな私がいる。台風が来る前だからか気温がやや高めに感じる。つまりもこもこパジャマでいると暑い。それでもなお着ているのは、見た目が幸福そうになるからだった。見る人は同居人に限られているのだけれども。

今日も比較的穏やかな1日を過ごしていた。と、この一言で済ませてしまうと書くことがなくなってしまう。今日も気分良くいつもの時間に起床することができた。1日の始まり方で大体どんな1日になるか予想ができる。今日は良い1日になる。

話す時間は楽しい。いつも楽しいのだけど、体調が良いと一層楽しく感じられる。何を話したかはあまり覚えていない。相変わらず記憶力が悪い。でも、話している時はまるで淡い色の海を泳いでるかのように心地が良い。波に太陽の光が映ってキラキラしている。澄んだ液体が全身を包みこんで私を浄化していくのだった。

最近食べるものを気をつけるようにしている。ダイエットとまではいかない。ファストフードや揚げ物やお菓子を控えているだけ。休日の朝はコーヒーをマグカップに2杯飲んで腸の動きを活発にしている。それだけでも体重がじわじわ落ちてきた。この調子でとりあえず1ヶ月様子を見たい。できればこの頃買ったお洋服達を上手く着こなせればなと思うのだけど、それは高望みな感じがする。結局洋服はピンクのアンゴラニットとミント系のアンゴラニット、ホワイトニット、ベリー色のワンピース、グレージュのトップス、青のパンツを購入した。こうやって書き出してみるとここ数日の買い物の履歴がまずいことになっている気がするけれど、本当に洋服がないのでこのぐらいは必要だろう。

今日は久々に机に向かう勉強をした。楽器の物理学って名前で覚えていたのだけど、音響学だった。近いけど違う。今日の勉強はあまり実りがあったとは言えないけれど、ワクワクするページが先に待っているので続けていこうと思う。

そして音楽も少しいじった。元友人が作っていたようなノリの良い音楽を作りたくて自分なりに真似てみたのだけど、Bメロを考えるのがだるくてやめてしまった。聞き返してもあまりワクワクする内容ではないし、何度か書き直してみたものの、やっぱりワクワク感がないのでやむなくボツに。曲作りは難しい。圧倒的に技量のなさを感じる。少しずつ勉強して補っていくしかないのだろうけど、ないなりにも作れるはずなわけで。気力の問題が大きいよなあなどとぼんやり思った。

そしてあっという間に1日が終わる。今日も楽しく生きた。嬉しいことを言われたので、ほんの少しの自信に変えて明日を生きたいと願う。日記らしい日記が書けたので今日は短いけれどこの辺で。

願わくはこの1人の時間が永遠に続いてほしい

ひしひしと冬が感じとれる。今日はストーブをつけた。やっとの思いで衣替えをした。部屋を少し片付けた。めまぐるしい日常の中で、私は常に穏やかな時間を感じとっている。きっとこれが幸福なのだろうと思っていたり、思わなかったりする。衣替えをしたのだけど、洋服が全くなかった。去年の私は一体何を着ていたのだろう。本当に服がない。だから安価な洋服をネットで見ていたのだけど、やはり安価なだけあってすぐに着れなくなってしまうのだろうなということが素材の構成から感じ取れるし、好きな洋服はポワポワのアンゴラニットで、持ちの良さを考慮するなら論外の代物。その上8900いくらとこれまた微妙な金額。でも買ってしまいそうな自分がいる。いや待て、ここは質より数だ…質より数…と言い聞かせる。なぜ古着という選択肢が自分にないのか不思議だ。お店はすぐ近くにあった。身近な存在。古い人間らしい、私は古着を着ることに抵抗がある。新品を探すのがダルい。そういうわけで古着という選択肢はなくなってしまう。今度のデートで着ていける洋服がない。一体私は何を着ていくのだろうか。本当に困っている。困っているけど、古着は嫌だ。私はやっぱりわがままだ。

人の思いの吐露が好きだ。その断片を寄せ集めてどんな人なんだろうと想像する。中身が詰まっているような感じがする。今日ツイッターでフォローしてきた人がいたのだけれど、お店の料理の写真ばかりだったからブロックしてしまった。「中身がない」と思ってしまったからだった。中身の詰まった人が好きだ。考えていることは中身に違いない。私は考えていることを口にする人が好き。それ以外ならただひたすらに「行う」人も好き。この2つに当てはまらない人はほとんど興味がない。私の興味の範囲は狭い。ブログは私にとってまさに宝庫だった。いろいろな人のいろいろな考え方が見てとれる。それもツイッターよりもしっかりとした形となって。本当はコメントをつけたいのだけれど、はてなブログはてなダイアリーはどうもコメントしづらい空気があるように思う。もっと気楽にできたら良いのだけれど。

しとしと、いや、だらだらと続く雨に私は鬱屈とした気持ちを抱えていた。ここ数日は本当に気分が悪かった。でも、今日はあまりその気配がない。天気に影響されずにここまで気分良く過ごせるのはきっと1年の間でもそうないことだ。そういう日だったから片付けや衣替えが捗ったのだろうと思う。1人で過ごすことに寂しさを感じることなく過ごせる。快適。度々連絡を入れてくれる彼のおかげかもしれない。

時々人に対して粗雑(ぞんざい)な扱いをしていないだろうかと気にかかる時がある。今日はそんな日で、いろいろな関係に対して1人反省会をしていた。いつの間にか関係が切れたケースで「いや私は悪くない」という考え方になってしまうのがおかしく感じられた。そして、関係が切れる前に少しだけ戻りたくなった。今が霞んで見えるわけじゃないけれど、あの頃は良かったな、なんてベタなことを思ってしまう。

触れる指が僅かに温かかった。やや体温の低い彼でも温もりはあった。抱き合ったときの感触を思い出しながら私は話をしたり、食事をしたり、今こうやって考えたりしている。着る服がないと思ったのも、彼に会うことを頭の中で強く意識していたからだった。早く会いたい。J-POPの歌詞はいつも「会いたい」で、なんだこいつらいつも会えてないな、などとウンザリしながら聴いていたのだけど、J-POPのように会いたくなる時は私にもある。そう、会えない時が常になっている今は会いたくなって当然だった。会って、触れることしか考えていない。幼い子どものように、無邪気に求めていた。幼い愛し方で良い。

私の感情のじんわりとした温かさとは裏腹にEVANESCENCEの切なくひやりとした音楽が部屋に鳴り響いている。彼の手書きの文字がアップされているのを見る。詩だった。また文字が読めない。漢和辞典を常備していないといけないなと思う。それにしてもやはりバランスの取れた良い字を書く。私がもっていないものを彼がもっているということになぜか羨望よりも安心感を覚えるのだった。願わくはこの1人の時間が永遠に続いてほしい。そう思える1日だった。