Emu’s blog

よくある日記

ため息が出るほど甘美な時間を過ごしている

「お箸を一膳ください」

「あっ」と心の中で声を上げる。「一膳」なんて言葉ついこの間まで気恥ずかしくて使えないと思っていたのだった。前までは「ひとつ」という言い方をしていた。親に箸を取ってほしいと頼まれた時、確か「ひとつ」と言われた気がする。でも、「ひとつ」じゃまるで子どもだ。あるいは言葉にせず、指でひとつ、ふたつと示していた。「一膳」という言葉があまりに自分の生活に馴染んでいなかったので、コンビニで初めて耳にしたとき妙に映ったものだった。そうか、箸はそういう単位なのか。いちぜん。いちぜん。いちぜん…。

新しい言葉に触れてから自分の中でしっくりくるようになるまでにかかる時間は言葉による。「淘汰」はわりと馴染んできたけれど、未だに「邂逅」は馴染んでいない。「一膳」はそんなに難しい言葉ではないのに時間がかかった。だから、今日のようにナチュラルに使えたことに内心驚き、喜んだ。今日は「一膳」がなんのひっかかりもなくいえた記念日だ。

そんなことを思いながら買い物を終えて家に帰ってきた。買ってきた食材を冷蔵庫に詰め込む。小松菜を見つける。何のために買ったのか分からない。たまたま安かったというだけだった。LINEがピコピコ鳴り、光っている。嬉しい。

なんとなくチーズケーキを作りたくなったのでそのために買い物に行った。チーズケーキはお菓子作りの中で最も簡単に美味しく作れると思っている。しかし、どんなに頑張っても家で作るチーズケーキは同じ味がする。おそらく材料の選択肢があまりないのと、美味しく作ろうと思ったらもっとたくさんの工程を踏んで、良いオーブンで焼かなければならない。差が出にくいという意味では初心者向けのお菓子だろう。

クッキーをくだいて溶かしバターと合わせ、クッキー生地を作る。お手軽だ。そして全ての材料をフードプロセッサーにかけて型に流し込む。オーブンに入れて焼く。なんて簡単なんだろう。

簡単すぎて、これだけでは満足できないと思った私はオルゴールアレンジをして遊んでいた。彼は読書をしている。話している時間も楽しいが、こういう時間も好きだ。そして彼の文字が書かれた写真を見つける。ニヤニヤする。相変わらず美しい。普段使わない言葉が並んでいる。ああ、彼はこういう言葉にも親しみがあるんだなあ。敵わない。そんなことを考えながら試行錯誤してようやくオルゴールアレンジが出来上がる。すぐに聴いてもらう。はあ幸せ。

ため息が出るほど甘美な時間を過ごしている、気がする。いつまでも続けることは不可能であろうこの状態を私は噛み締めている。

「コーヒーは最初の一口 甘いケーキの端っこ

ポテトは揚げたてにして美味しいとこは少しだけ」

チーズケーキを食べた。家で食べるチーズケーキの味だった。その味にほっとしながら、もっと美味しいものが作りたい、今度は手間をかけてみようとなどと思う。

カーテンを開けた。今日は月が綺麗なはずだ。「はず」というのは暦の上でそうだからだ。でも私はイメージの中の月を見ていた。空は暗い。本当の月は見えないでほしい。見えなくていい。表象(イメージ)を大事にしたい、そんな時だってある。

思いが伝わらないことを、もう何度だって経験していた

息が上がる。ほんの少し階段を上っただけでこれだ。しかし、日頃運動をしていないデメリットとしてこの程度の苦痛を味わうだけなら、それはそれで構わないと思ってしまう。人は実害が起こらないとなかなか改まって行動することがない。後々困るのは自分なのに。

洋服を見ていた。夏からそうだったけれど、今シーズンはラズベリーなどのベリー系の色味のアイテムに惹かれる。考えもなしに上下同じ色味のものを買おうとする。さすがに上下で合わせると派手すぎてキツいかもしれない。何色と合わせるのが正解なんだろうか。黒が無難だけど、無難すぎる感じがしている。カーキは少し勇気がいるけれど、合わないこともないだろう。デニムとは相性が良いように思う。キャメルとも合うだろうか。

「俺ビレバン行っているから」

彼がいう。どうして一緒に見てくれないんだろう。こんなに楽しそうにする私に興味がないのかな。

「一緒に見ようよ」

「ええ…」

嫌そうにする彼に少々落胆するも、すぐに気を取り直す。「これ、私に合うかな?」「今年はこの色ばかりが気になっているの。」「ああ、何か1点買うだけじゃ気が済まないな、買うなら上下買いたい。」独り言のように呟く私を彼は見ていない。どこか違う場所ばかり見ている。

洋服を見る前は、降りたことのない駅を降りてご飯を食べた。無愛想な接客をする女性の酷さとは裏腹に肉汁の溢れる和牛ハンバーグは美味だった。写真ではかなりのレアに見えたけれど、実際目の前にしてみると程よい赤味の差すお肉だった。彼はしきりに全体を見渡し、店員の女性を観察していた。飲食店に勤めているだけあって、見る目が厳しい。何か思うことがあるのだろうなと思いながら、その様子を私は観察していた。店を出てお互いに味や接客の評価をした。やはり彼はいろいろなところを見ていた。「ギャルっぽい人を雇っているのは店主の趣味かもね」と彼が言い、なるほど、と思った。最初に水が運ばれてきたとき、アートを施されたネイルを見て私はぎょっとしたものだった。でも味が良かったので良かったという評価に2人共落ち着いた。

そんな話をしながら次に向かったのは神社だった。何故か参拝したいと彼が言うので、ついていったのだけれど、参拝の作法を良く知らない。今時はスマートフォンでなんでも調べられるのだから、困ることはないのだけれど、この歳までろくに参拝してこなかったことが急に恥ずかしく思えてしまった。合っているか自信なさげに私は恐る恐る参拝し、近くにあったおみくじに興味を示す。恋愛の面が今回は特に気になっていたのだけれど、開けてみると、「中吉」。当たり障りのないことが書いてあった。「縁談 吉、とゝのう」。全く嘘も良いところだと思ったけれど、もしかしたら整うのか。どう整うんだろうか。そして、歌を声に出して詠む。おみくじに歌なんていつもついていたのだろうか。いや、ついていない気がする。春を待つようなそんな歌だった。

参拝を終えた私達はカフェに向かう。自家焙煎を行っているカフェが近くにあるらしい。これは期待できる。美味しいコーヒーが飲めることも嬉しかったのだけれど、期待に胸を膨らませながら歩く彼の姿が非常に愛おしく思えた。やや道に迷ったけれど、彼の方向感覚は素晴らしく良いのですぐに間違いに気づき、目的地に辿りつくことができた。

ボードには新入荷したという豆の名前が踊っていた。店内が良く見える店構えは私に好印象を与え、何の抵抗もなく扉を開け、店内に入ることができた。この辺に住んでいるであろうマダムたちがお茶の時間を楽しんでいた。人は多くないが、ガラガラというほどでもない。丁度良い感じだった。照明も良い塩梅。招かれて席に着くと、厚いメニュー表が配られた。ひとつひとつ丁寧に説明の入った親切なメニューだったが、種類の豊富さに驚きもした。さすがに多すぎて比較ができない。おそらくハンドドリップだろうブレンドコーヒーやストレートコーヒーに興味を示しつつ、エスプレッソがあったので、久しく飲んでないなと思った私はカプチーノを頼んだ。彼が楽しそうにしているのを私も楽しそうに眺める。心のどこかではこういうことももう最後かもしれないと思いながら。それがあったからか、何故かこのお店の豆を購入したいという思いが芽生えたので、彼に「豆が欲しい」とねだった。微妙な気持ちの変化は見えないのだろう、彼が何食わぬ顔で「ああうん」と返事をし、豆のコーナーを一緒に見る。種類が多すぎて自分ではどれが合っているのか分からない。結局彼が「ケニアにしようか」と決めたものにした。購入したのはたった100gだけれど、十分なように思えた。家に帰ったらすぐに淹れて飲みたい、それがやりたくてたまらない。となぜか強く思った。

そうするうちにコーヒーが運ばれてきた。思っていたよりカップが大きい。これで540円は妥当だな、という感じ。ハートのアートが目に入ったけれど、彼が描くハートの方が可愛いなと思ってしまったことをおかしく感じてニヤニヤしてしまう。「何?」と訊く彼に「いや、あんまり上手くはないなと思って」というと「普通だけどね」と答える。そうなんだ、これが普通なんだ。

飲んでみると、始めは味が分からなかった。いや、コーヒーであることは分かるのだけど、嫌な苦味や酸味がなくてすーっと体に染み渡るような感じがした。熱すぎて分からなかったのかもしれない。よく分からなかったけど、嫌な味がしなかったのでこれは美味しいコーヒーだと思った。

「美味しい」

「ほんと?」

「うん、甘みは感じないけれど」

嘘はついてない。そして彼が飲むところをじっと見つめる。見つめていると

「美味い!」

あ、本当に美味しいときの反応だ、と思いやっぱり美味しいんだなと安堵する自分が少しいた。本当に美味しそうに飲むなあと感心しながら私も再び口をつける。…ん?美味しい。さっきよりずっと味がする。甘みも感じられる。

「あれ、さっきより味がする」

「冷えた方が味出てくるからね。飲ませて。…ん、美味いね。甘い。これ、そのまま飲んだら多分相当酸っぱいね」

「確かに甘くなった」

よく分からないがそういうものなのか、となんとなく納得する。「酸味のあるコーヒーはミルクと相性が良い、ミルクと混ざると甘さが出てくる」という知識も彼から受け継いだものだった。コーヒーの話を延々と続けて、カフェを出た。

―私を見ていない彼は一体何を見ているのだろう。洋服屋さんを出て、食品売り場に向かう私は考えていた。振り返ると、私は彼を見ているのに、彼は私を見ていないんじゃないかと不安になる。嘘をついた。不安になれるほど何か期待を彼にできているなら、まだ安心だ。よそ見をする彼に私は諦めのようなものを感じている。思いが伝わらないことを、もう何度だって経験していた。苦しいと言えないことを何度も「どうして」と思った。お刺身を見ながら嬉々とする彼に微笑み、綺麗に並べられた宝石箱のようなお刺身の盛り合わせを彼と一緒に眺めている。今日はお刺身が晩御飯だ。欲しいものや必要なものを選んだ結果5800円にもなった食費も「もうこんなに買うことはないかもしれない」と思うとどうでも良かった。予定よりやっぱり重くなってしまった荷物を抱えて、同じくらいの歩調で帰宅する。今日はまだ合うみたい。

今日は朝食から夕食まで一緒に食べた。一緒に何かしていることが多かった。もしもいつもこうだったら……なんてことも考えたけれど、考えても仕方ないよねとすぐさま思考を正す。そしてやっぱりズレるのだ。映画を一緒に観ていたけれど、私は寝ているあの人がもうすぐ起きる頃だ、とそわそわし始めLINEの画面を頻繁に開くようになる。やっぱりズレてしまっている。映画のエンドロールまで観ることはなかった。そして、私は今この記事を打ち込んでいて、彼はベッドで寝息を立てている。

ただその文章の美しさに感心し、言葉を飲んだ

気怠い時間。またこの時間だ。私は中途半端な睡眠から無理矢理脱出し、揺り動いた。15時25分。以前ツイッターにも15時台の話を書いた。

15時台が好きじゃない。必ず眠くなる時間帯だから。すべてが気だるく流れていく。授業中は意識が遠のいて夢を見ているような感覚になるし、働いている時は手を動かしているのに生きた心地がしない。この時間帯に集中できたらどんなに作業が捗るだろう。しかし時はお構いなしにだらりと流れていく。

 

何もない日の15時台はさらに酷い。怠惰に怠惰を重ねたような重々しい空気に襲われる。時間が止まってしまったかのように何もかもが遅い。そしていつもマラソンをして疲れ切ったかのような体のコンディションになり、苦しくてたまらなくなる。

 ああ、同じ瞬間なんてないのに、日常においてなぜ「同じ」だと思ってしまえるのだろう。時計がいけない。時計が発明された背景はなんとなく知っているし、把握しているつもりだけど、感覚が「いらない」と言ってくる。いらない。現に私の寝室には時計がない。私の寝室はホテルのようなものだった。情事と眠る時以外出入りしないのだ。本棚はあるけれど、手にとってそこで読むためにはなかった。本はPCの前で読むからだ。寝室という空間にはベッドひとつあれば良かった。他は余計だった。だから、寝室にあれこれと置いている今の状態には違和感がある。ホテルの部屋のように時間を忘れることができる寝室に私は愛着があったし、…本当はここでもっともっと良い思い出を重ねたかった。

神経をすり減らした翌日、それが今日になるわけだが、日常の過ごし方さえ分からなくなっている。何かしないと時間が経たない気がして、作らないでおこうと思っていたのだけど結局クッキーを焼いてしまったし(いや焼かされたといった感じだし)、多少は結果的に楽しめたチャットも半ば強制的にやった節があるし、LINEも返事をしなければならない意識に突き動かされてやった気がする。相手には申し訳ないことをしたかもしれない。でも、私が全くやりたくなかったというわけではない。この微妙なニュアンスは筆舌に尽くしがたい。

画面の前でぼんやりしていたら、苦手な15時台が終わっていた。あれだけ怠さに押し殺されそうになっていたのに、それが次第になくなっていくのが分かる。「やあ」とやってきた16時さんは、どこか物悲しくて少々苦手なのだけど、同時に希望の光でもあった。

さて、ここで少し書くことについて話したいと思う。我ながらすごいなと思うところは、あまり読者の目を意識してない点にある。良いか悪いかはさておき(多分両方)、これをやりたくてもできない人が一定数いることを考えると、なんだか自分だけ宙に浮いているような気がしてしまう。今日とある人のブログを読んでいて、はあすごいなと感心した。書くために書く内容を探してしまうということ。読む人を意識して書こうとしてしまうこと。私はそんな事態になったことがおそらく一度もないのだ。もちろん0ではないと思う。私の意識のどこかでは読み手というものが存在しているだろうし、反応をもらえることは楽しみにしているのだが、「反応をもらうために書く」ということがほとんどないことに最近気づいた。書く時は意識がこう、ぶつっと切られている感じがする。普段は面白いことを書きたいとか、反応がほしいという意識はまああるのだけど、書く時になるとそれがすーっと抜け落ちてしまう。読み返した時に自分が面白いと思えるものしか書いていない。

だから今日もこうやって、15時台の怠さと、書くことのメモなんかを日記に書いている。自分にとっては書くべき内容だったから。しかし、他者というものを意識した時、あまり面白くないのでは?という感じがする。15時台の怠さや書くことなんてどうでも良いだろう。そうなってくると、何が他者にとって面白いのかを考えて書かなければならない。非常に苦しいことだと思う。「他者」とはあまりに漠然としすぎているからだ。この人のために、とかこの人とこの人が読める内容にしよう、と具体的に読み手を推定できればもっと書きやすくはなる。けどやはりこの方法では精神衛生的に良くない感じがするので私はやらないと思う。

今日ふっと思った。人は思ったほど他人に興味がないのでは。と。自分に関心がある。自分のことと照らし合わせることができるから、他人の書いたものに共感することがある。その相手に、相手の書いたものに純粋にぐっと惹かれることなんて滅多にないのでは。だから、この間の読書体験は非常に貴重なものだったと改めて思う。あるフォロワーさんの記事。感想は本人に伝えたので割愛するけど、それは本当に良い記事だった。本人的にどうだったかはさておき、私にとっては人生で数回しかないほどの貴重な体験をさせてもらった。何度でも読みたくなる文章。ただただその文章の美しさに感心し、言葉を飲んだ。と同時に書きたいという欲を掻き立てられるものだった。

やはり良いと思うものにはそれ相応の時間がかけられているので、このブログのような日記という記事ではそういった魅力は出しにくいのだと思う。私もいつか書きたい、書かなければ、という気になった時に時間をかけて丁寧に言葉を綴ってみたい。

貴方との終わりを見つめる覚悟

―いつかの記憶。

「僕は何をどこで間違えたのでしょうか。」

眠れない夜だった。「さみしい」と珍しく弱みを見せた人がいた。どうしたのだろう、とリプライを送ってみる。返事があったことに私は少しほっとする。

「酔って寝ようとしたらたまらなく寂しい気持ちになりました。いろいろと呟いたことで落ち込んでいます。」

そんなに何か落ち込んでしまうようなことを呟いたのだろうか。読み返してみるも、よく分からない。ただ何か苦しいことだけは伝わってくる。私はDMでさらに事情を聞こうとする。でも返事は来ないかもしれない。この人とはあまり話したことがなかった。つい数日前、私が「告白」しただけの相手。「文章から伝わる心に惹かれた」という内容だった。愛の告白ではない。私なんかより、きっと他に話したい相手がいるのだろう。そう思っていたので期待はしていなかった。ところが予想に反してDMが届く。

「僕も少しの告白をしてもいいですか?すいません、すぐに忘れてくださいね。」

すぐに忘れろと言われて忘れられる人がどれほどいるんだろうか。返って強調されてしまうであろうこの後にくる内容に身構える。怖さもあった。自分ではどうしようもないことを言われるんじゃないかという傲慢ともいえるその考えを振り払う。私は話を聞くことしかできない。うんうんって聞いてあげることしかできない。自分に言い聞かせる。私はすぐに解決策を探してしまう悪い癖があった。この人がどちらの対応を求めているかは明白だった。仲良くないような私なんかに話すことだ。忘れてほしい、というほどだ。きっとただ聞き入れてほしいだけ、いや、聞き流すだけで良いはず。あれこれ考えているうちに長文のDMが届く。

「僕はすごく孤独です。誰かに愛されたいし、誰かを愛したいです。でも、一般に言われている愛は汚いと思います。空想で綺麗な愛を描いても、すぐに批判の目を向けてしまい、そのせいで自分の汚さが露わになってしまう。苦しくて苦しくて潰れてしまいそうです。肉体的な愛の表現を欲しているものの、それを感覚で美しいと陶酔することができないのです。僕は、表現によってその問題を解決しようとしていますが、出口が見つからずに苦しんでいます。他者の醜さは受容できても、自分の醜さは受容できません。それは僕が未熟だからだと思うんです。もう少し辛抱してさえいれば、なんとかなる気はしているのですが」

聞き流せる内容ではなかった。予想の斜め上をいく内容だった。こんな重大なことを私なんかに聞かせて良いのだろうか。忘れてくださいと言われた意味が少し分かった気がする。これはもっと親しい人に話すべき内容だ。

潔癖な人だ、と思った。美に固執しているような感じがする。そして、孤独だった。愛に触れられない、仮に触れる時を想像しても、それに陶酔することができない。なんて苦しいのだろう。私にはない感覚だったから、正直なところあまり共感できる話ではなかった。でも、想像するにすごく孤独で苦しいのは分かる。

「苦しいと今ここで発することで、その苦しみが少しでも緩和されれば良いのだけど。」

そう言うと、思ってもみない返事が来る。

「苦しいと発することで誰かが苦しんでしまうかもしれないことが苦しいです。」

何なのだろうこの人は。ずっと1人だったのだろうか。私は好んでその苦しみを聞いているし、できれば共感したいと思っているのに。その意に反して、いやそれを分かった上で言ったのだろうか。

「一緒に苦しみたいと言われたら?」

「そんなこと言ってくれる人がいるのでしょうか。」

今までいなかったのだろうか。少なくとも私は今どうにかしたい思いでいっぱいだ。

「いますよ」

即答してしまった。それは自分がそういう気持ちになっていたから、確信がある故に言った言葉だったが、関係性を何も考慮せずに言ってしまい、迂闊であったなとすぐに猛省した。その後少し距離を取って修正した。というか距離を取られた。そして会話は終了した。

―「僕は何をどこで間違えたのでしょうか。」

何も間違えてはいないし、今は何も起こっていないと思われるのに、どうしてこの人は悩んでいるのだろう、とこの言葉を言われて変な気分になった。私が何か見落としてきたことなのか、それともこの人と同じようにこれから私が直面する問題なのか。

良くは分からなかった。見えた解決策は、事実を受け入れて「成熟」することだった。私が若い時、同じテーマではないにしろ愛について悩んだこともあったような、と思い出した。抱き合っている最中に号泣して相手を困らせたっけ。「貴方との終わりを見るのが怖い。覚悟ができない」などと意味不明なことを言ってみせたっけ。遠い記憶だった。

愛における美なんていまだに分からないのだけど、近似の悩みがここ最近姿を見せる。

「確かなものを求めているのですか」

自分の言葉だ。そんなものはない。「割り切れないよ。」と相手は言った。その通りだった。何年経っても「貴方との終わりを見つめる覚悟」なんてできやしなかった。それは死別でも、生き別れでもそうだ。いつか裏切ってしまうかもしれない自分がいるのが怖い。「愛が歪んでしまう。」そう言われた。その通りだ。怖い。でも、実際はその一歩先を行っていた。「それでも今貴方が好き」。この気持ちに尽きる。この気持ちさえ手元にあれば、あとはどうとでもなる。どうにかしていく。今貴方が好きなのだから。

…結局この人は今どうしているのだろう。悩みは解決したのだろうか。今まさに悩んでいる最中なのか。私の知る術はなかった。この人はもう私の知っていた人ではなかった。そう、すっかり変わってしまったのだ。だから、聞くことができずにいる。あの頃に戻っても聞けることでないし、もし平行世界が存在して、この人が変わらずに今いるのなら、「最近どうですか」なんて当たり障りのないような言葉をかけて、聞き出してみたいものだ。

 

私は幸福だったし、今でも幸福に違いない

るんるんで予約したものの、なぜか行くのが憚られるもの。美容室。重い体を起こし、シャワーを浴びて準備をした。昨晩お酒をやってしまったので、コンディションは最悪だった。顔が浮腫んでいる。胃が何か落ち着かずにゾワゾワしている。そしてとにかくだるい。また嫌だな、と思いながらベースメイクをする。そしてポイントメイク。

だるい。どうしてこうもメイクには工程が多いのか。なぜそれを普通の人たちは何食わぬ顔で平然とやれるのだろうか。電車の中でメイクをする人たちは特にすごい。それは皮肉でもなんでもなく、本当に技術的に高いように思えてならない。揺れ動く電車内でアイラインを引くなんてどんな訓練をしたらそんな高等技術を使えるのだろうか。そんなことを考えながらだるいだるいメイクを終えて、なんとなく生活を送れるようなコンディションへ次第に変化していく。

指名はあえてしない。このお店の中で誰が自分に1番合っているかを知りたくてずっとしていなかった。でも、もうほとんどのスタッフにカットしてもらったので、そろそろ選択しても良い頃合いだ。今日は前回と同じ人だろう、と安心しきっていたら、見たことのない人がやってきた。ああ、そういえばスタッフ一覧に載っていたな。

接客が異様に冷たい人だった。すごく機械的に、お決まりの文句で会話をする人。「今日はお休みですか」仕事中に来るわけないだろうと思うし、もし仕事してない人に当たったらなんて切り返すのだろうと思いながら、「ええ」とにこやかに答える。このにこやかに答える自分が嫌いだった。その上「◯◯さんのお名前って珍しいですよね」などと話を続ける。これじゃまるで話がしたい人みたいだ。私は全く話したくなかった。施術内容に不満はなかったのでまあ良いけど、リピートはなしかな、と思った。帰る時、初めてその人の顔の造形をまじまじと見た。あまり格好良くはなかった。だからなのか目が死んでいた。

ここ数年は複雑な活動を続けているし、複雑な心境でいることが多い。何の話かというと複数の人と関係を持つということ。いわゆる…言い方はいろいろあるが、どうも自分にはピンと来ていない。そんな不純さが自分の中にないからだ。今の彼にこの記事が見つかっても良いという気持ちがあるから今ここにはっきりと書いておく。

もう最後になるかもしれない餃子を彼のために作っていた。歌が頭の中で流れる。「こんなにも穏やかな終わりがあるなんて不思議ね」本当に穏やかな終わりがあるのだな、と思う。穏やかなのは自分だけで、彼にとっては違うものになるだろうけれども。想いが尽きたわけではないのがややこしい。尽きていたらもっと美化して小説にでもできてしまえるのに、好きな気持ちは変わらない。何か、好き以外の何かが枯渇しているのは分かる。それは付き合い始めの熱情だったり、ときめきと呼ばれるものだったりするのだろうけれども。でもそんなものなくたって良かった。この関係が続けられるなら続けたいという気持ちもある。でも、彼の性質と私の性質が合わない、彼に受け容れてもらえない。ただそれが苦しかった。ずっとずっと苦しくて、これからも苦しまなければならないのなら、そして彼に知れた時に彼が苦しい思いをするなら、どうしてこの関係を続けられるだろうか、いや無理だろう。私はきっとうまくやれるけど、そういう問題ではない。彼も知らずにいれば苦しまずに済むが、そういうことではない。

次の彼を想いながら餃子を包む。美味しいと言ってもらえるのだろうか、というかいつ作る機会に恵まれるかもまだ分からない。前途多難すぎる、と理性がいう。でも、それを覚悟していた。いろんな覚悟があるけれど、この覚悟は私の人生の中でそうない覚悟であるに違いなかった。次の彼を想いながら、今の彼に連絡を入れる。「仕事遅いの?大丈夫?」そんなことももう日常茶飯事だった。これまでもずっとそうだったのだけど、今若干の違和感を伴っているのは、そろそろ複数と関係を持つことに疲れ始めているからだろうか。サガンの『ブラームスはお好き』のラストに出てくる「私はおばあちゃんなの、もうおばあちゃんなのよ」みたいな感じのセリフを思い浮かべる。分かる。私もいい加減おばあちゃんなのよ、と言いたい。ふっとここでなぜかその前の人の温もりを思い出す。ああ、どうしてあんなに温かかったのに、突然私の心は冷え切ってしまったのだろう。切なくなる。でも、私は幸福だったし、今でも幸福に違いない。

楽しい時期はあった。楽しい時というのは複雑に絡むポリフォニーを構築できた喜びを掴んでいた時。多分それはある意味残酷極まりないことなのだけど、私はそれを子どものように眺めている節があった。躁のせいもあった。そうでなければ、鬱のときにあんなに苦しむことはなかっただろう。自分の為すことに責任を持てずにいた。でも今は違う。今後どうなるかは分からないけれど、きちんとしたい思いがあった。「きちんと」というのは道徳的にということではないし、世間からズレる決意をしたばかりなので、世間の常識やら規範とやらに沿いたいなどという話ではないのだけど。自分の中の正しさをもってきちんとしたい思いがあった。関係してくれる人を出来る限り傷つけたくなかった。だから事実を知ってしまうと苦しんでしまう彼のことは解放してあげたかった。そして自分自身解放されたかった。

残り少ない彼との時間を楽しみながら、前の人のことを惜しみながら、今の人を想う様子は実に滑稽に違いないし、非難されるべき状態であるのは承知の上で、私は今を生きている。以前一緒に包んで食べた思い出を振り返りながら、1人で餃子を食べた。

夢との境で苦しんでいた

しんどさと心地良さが交互に来ているようなここ数日。夢の中を泳いでいるような感覚にもなる。今日は良く眠れなかった。息苦しくて目が覚め、思考の渦に飲まれ、苦し紛れにLINEをしている途中で思考がダダ漏れになり、その涎を拭わなければならなかった。その間寝ていたのかもしれない。良く分からないけれど、夢との境で苦しんでいたのには違いない。

このここ数日の余裕のなさは一体何なんだろう。縋るように生きている。何がそうさせているのだろう。悩みはいくらかあるのだけれど、そればかりが原因でない気がしてきた。しかし、鬱と呼ぶにはあまりに元気が良すぎるし、思考だけが鬱状態化するなんて症状聞いたことないので、おそらく正常の範囲なんだろう。

某漫画家と連絡を取り、近況を報告すると、やっぱりそうきたか、というような感じの感想をいただく。まあ、そうだよね。私傍から見たらそんな感じだよね。詳細を書くことはやめておくけど、私は以前からどこかおかしい。ただ1点だけ反論したい箇所があって、私は男を見る目がないということはありえないのだと思う。それは社会的な、いわゆる客観的な捉え方をしても今までの人たちは立派だったし、主観的に見れば尚更そうである。私にはもったいない人たちばかりだった。事実もったいなさすぎて別れた人もその中にはいる。それが主な別れた理由というわけではないけれども。

食後の動悸が来ていて今現在も苦しい。動悸による苦しみだということは分かっておきながら、生きづらさから来ているのではないか、とやや考えもする。人に頼りたいところだけれど、頼れる人も今はいない。どうしよう、苦しい。私の救いは、苦しみを文章に起こして自分を慰めることができる環境があるということ。

結論はもう出ているので、ただうんうんって話を聞いてくれる人にこの内実を打ち明けたい。そういう感情がある。できれば普段あまり関わってない人が良い。そう、私をただの他人の、多数の中の1人だと見做してくれるようなそんな距離の人が良い。そこに要らぬ感情をよこさない人が良い。またなんて独りよがりな考えだろうとここまで書いていて思うのだけど、思うぐらいは許してほしい。

でも、1つここで明かしておくと、私は好き好んで苦しんでいる節がある。いや、生きづらさを積極的に感じたいとかそういうことではないし、この状況に好き好んでなったわけではないのだけれど、なんていうんだろうか、好きな人のためなら苦しめる状態に今ようやくなった、といったところだろうか。以前にも似たような状況にはなったことがあるのだけど、その時はあまりの辛さに耐えきれず、意味不明なまま気持ちが尽きてしまった。同じ、ということはあり得ないけど、また気持ちが尽きてしまったらどうしようという不安は少しあるのが正直なところ。しかし、そんな心配をよそに、私の気持ちはこれから何年も続いていきそうな気配があるし、以前感じた環境が大きく変わることへの恐怖だとかしんどさが今回はあまりない。全くないといえば嘘になるけれども。だから大丈夫なんだ。安心して良いんだ。

良い意味で淫靡さを感じない、そして背徳的だと思わない、すごくまっすぐな気持ちでいられる人と出会えて本当に嬉しい。もし、何もかもきっちりと方を付けられたら、この喜びを精一杯表現したい

自分で選択してきた集積に満足している一方で、息苦しさも感じている

 目覚めた。外はまだやや暗い。たくさん寝ていて良いはずなのになんだか早く起きてしまった気がする。枕の右隣の定位置にあるスマートフォンを手で探り当て、時間を確認する。この部屋には動く時計はなかった。そう、動かないオブジェとしての時計ならある。先日旅行に行った時に土産として買ったのだ。なぜ動かさないのかというと針の動く音が異様に大きいからだった。どの部屋に設置しても音的に悪目立ちしてしまうその時計は、結局私の寝室のインテリアとしてステンドグラスのランプとともに飾られることになった。

 5時半だった。あまりに早すぎる。早すぎるけれど、夜勤の人は丁度勤務中だった。私はその人に「目が覚めた」とLINEをする。もしかしたら返事が来るかもしれないという期待を拭いきれずに目覚めたなんてどうでもいいようなことを呟いてしまう。しばらくして返事が来ないので、再び寝たり起きたりを繰り返す。熟睡とは程遠い私の睡眠の質は、アプリによれば「友達以上恋人未満な睡眠」らしかった。何それ。

 ようやく起き上がる気になった頃にはもう夜勤の人が退勤する時間になっていた。あわててアイスコーヒーを淹れ、電話をかける。気持ちひとつで話題には困らなかった。そう、何を話すでもなく話すということが、互いに好意を持っている場合は可能なことに再度気づかされ、話した後しばらくそのことについて考え込んでいた。逆に気持ちが抜け落ちてしまった相手に対しては、上手いリアクションひとつも取ることができなくなってしまい、いわゆる「コミュ障」的な会話になってしまう。私は素直すぎる。

 話を終え、のろのろと出かける準備をする。今日はなんだかすごく人恋しい感じがして、落ち着かなかった。平日の誰もいないTLにかまってほしいと言葉を零すも、反応する人はいない。忙しい人たちばかりであるというのと、私と話せる距離感の人がいないというのと、そもそも私に魅力もコミュニケーション能力もないというのがフォロワーに筒抜けであるということ。このいくつかの可能性を考えながら、嫌々化粧をする。ベースメイクが嫌いだった。本当は顔をこの肌色のクリーム状のテクスチャーで覆いたくない、という感情が塗る時にいつも喚起される。肌の穴という穴を塞いでいる感じがたまらなく嫌だった。そう、閉塞感だ。「苦しい」と思いながら化粧を続け、なんとか外に出られる状態へと化けた。

 風が気持ち良い。気温も程よく、空も青い。引きこもりがちな私にはあまりに清々しすぎて何か心を家に置いてきてしまったような気にさえなる。散歩をしても良いなと思ったけれど、散歩をしている間あれこれと考えに耽るのも癪な気がして、なかなかいつも実行できない。今日もそういう日だった。家に心を忘れたまま雑用を済ませ、お昼を買う。今日はそんなにお腹が空きそうな感じではなかったので、サンドイッチにしようかなとスーパーをぐるぐる回りながら考えた。そういえば、Yちゃんのお昼はいつもサンドイッチだな。サラダも一緒に写真に載せていた。サラダとサンドイッチ。どことなくヘルシーな感じがして良い。今日はこれにしよう。

 早々に買い物を済ませた私は、再び家へと帰る。ベースメイクの閉塞感は嫌いなのに、カーテンを閉め切った閉塞的な部屋には安心感を覚えることを発見した私は、人の性質なんて案外いい加減なんだなと思った。ただ、部屋にいることに正直飽き飽きしている自分もいた。そして、この生活を窮屈に感じる自分もいた。苦しい。どうしてこんなに苦しいんだろう。じっとりと汗をかいた背中を鈍く感じとると、「多分暑いから苦しいんだ」という気持ちになったのでエアコンのスイッチを入れる。あ、電池が切れたんだっけ。新しいのどこだろう。とりあえず本体の電源を入れる。

 涼しくなってくると、幾分息苦しさも軽減されたように感じた。本を読んでいた。珍しく柔らかい文章の本を読んでいる。小説なんて年に2,3冊読むか読まないかくらいで、超のつく遅読である。だから読む本は選びに選び抜いたものが多い。けど、この本は違った。朝電話をした相手からこないだもらった本だった。借りた、のかな?どっちなのか良く覚えていないけれど、多分くれたんだということにしておく。さらさらと読める文章に、さらさらと入ってくる内容。砂時計のように時間とともに進んでいく話に、専門書にはない心地良さや面白さを感じていた。内容も息苦しさを感じている今の私には丁度良かった。旅行の話だったのだ。でも、私の息苦しさは彼女のように旅なんかで解決するものではなかった。もっともっと根深くて、どうしようもない問題だった。

 今まさに人生の岐路に立っている感じがしている。このままこの日常を続けるという選択と、日常と決別するという選択。「日常を続ける」のにも2つあって、新しい日常を受け入れるかどうか、という選択と、本当にこのままの状態を死ぬまで保持するという選択がある。親は私にいわゆる普通の人生を歩んでほしいと思っているし、他の周囲の人間も今のところそうなるだろうと思っているに違いないが、私はそこから一歩外へ出たい気持ちがますます強くなっている。人のために生きることを昔は選んでいたし、その道にいる間は死ぬまでそれをやり通せると思っていた。実際その道に進んでいればできたはずだ。でも、無理が祟って病気をしたことで私の人生は大きく変化した。一度こういう経験があると私は人のために生きられないんじゃないかという気がする。子のために生きたり、パートナーのために生きたり、そういうよくあることが私の自己中心的な性格のせいでうまくいかない気がするし、そういう性質を持っていると自覚しているのに、さも利他的に動けるように皮を被っている今の自分が憎い。なんだかこのままではいけない気がしている。

 感傷的な気分になった私は今こうしてまさに日記らしい日記を書いているわけだが、どうだろう。この日常、いつまで続けるんだろうか。続けられるんだろうか。本当に大切なものってなんだろう。肌の穴という穴にファンデーションを埋め込むような日常である。塗られた皮膚は平らになって、地の肌よりうんと綺麗になるし、色を上から塗ると映えてさらに綺麗になるいうことも分かっている。それに、メイクをすることで人に見られてもおかしくないのだという意識を纏えるのも重要で、ずっとずっと安心できる。安心できるのだけど、本当の肌はいつまでたっても本当の平らにはなってくれない。スキンケアには力を入れないの?と心の私が囁く。仮にスキンケアに時間とお金をかけたって、穴自体は埋まらないのも分かっている。どの道穴がある限りだめなんだ。そんな気になる。自分で選択してきた集積に満足している一方で、息苦しさも感じている。本当に強欲だと思う。でも何か捨てなければならない時期に来ているんだということも分かっていて、今、私は腕から溢れそうになっている宝物を歯を食い縛りながら抱えている。