Emu’s blog

よくある日記

自分で選択してきた集積に満足している一方で、息苦しさも感じている

 目覚めた。外はまだやや暗い。たくさん寝ていて良いはずなのになんだか早く起きてしまった気がする。枕の右隣の定位置にあるスマートフォンを手で探り当て、時間を確認する。この部屋には動く時計はなかった。そう、動かないオブジェとしての時計ならある。先日旅行に行った時に土産として買ったのだ。なぜ動かさないのかというと針の動く音が異様に大きいからだった。どの部屋に設置しても音的に悪目立ちしてしまうその時計は、結局私の寝室のインテリアとしてステンドグラスのランプとともに飾られることになった。

 5時半だった。あまりに早すぎる。早すぎるけれど、夜勤の人は丁度勤務中だった。私はその人に「目が覚めた」とLINEをする。もしかしたら返事が来るかもしれないという期待を拭いきれずに目覚めたなんてどうでもいいようなことを呟いてしまう。しばらくして返事が来ないので、再び寝たり起きたりを繰り返す。熟睡とは程遠い私の睡眠の質は、アプリによれば「友達以上恋人未満な睡眠」らしかった。何それ。

 ようやく起き上がる気になった頃にはもう夜勤の人が退勤する時間になっていた。あわててアイスコーヒーを淹れ、電話をかける。気持ちひとつで話題には困らなかった。そう、何を話すでもなく話すということが、互いに好意を持っている場合は可能なことに再度気づかされ、話した後しばらくそのことについて考え込んでいた。逆に気持ちが抜け落ちてしまった相手に対しては、上手いリアクションひとつも取ることができなくなってしまい、いわゆる「コミュ障」的な会話になってしまう。私は素直すぎる。

 話を終え、のろのろと出かける準備をする。今日はなんだかすごく人恋しい感じがして、落ち着かなかった。平日の誰もいないTLにかまってほしいと言葉を零すも、反応する人はいない。忙しい人たちばかりであるというのと、私と話せる距離感の人がいないというのと、そもそも私に魅力もコミュニケーション能力もないというのがフォロワーに筒抜けであるということ。このいくつかの可能性を考えながら、嫌々化粧をする。ベースメイクが嫌いだった。本当は顔をこの肌色のクリーム状のテクスチャーで覆いたくない、という感情が塗る時にいつも喚起される。肌の穴という穴を塞いでいる感じがたまらなく嫌だった。そう、閉塞感だ。「苦しい」と思いながら化粧を続け、なんとか外に出られる状態へと化けた。

 風が気持ち良い。気温も程よく、空も青い。引きこもりがちな私にはあまりに清々しすぎて何か心を家に置いてきてしまったような気にさえなる。散歩をしても良いなと思ったけれど、散歩をしている間あれこれと考えに耽るのも癪な気がして、なかなかいつも実行できない。今日もそういう日だった。家に心を忘れたまま雑用を済ませ、お昼を買う。今日はそんなにお腹が空きそうな感じではなかったので、サンドイッチにしようかなとスーパーをぐるぐる回りながら考えた。そういえば、Yちゃんのお昼はいつもサンドイッチだな。サラダも一緒に写真に載せていた。サラダとサンドイッチ。どことなくヘルシーな感じがして良い。今日はこれにしよう。

 早々に買い物を済ませた私は、再び家へと帰る。ベースメイクの閉塞感は嫌いなのに、カーテンを閉め切った閉塞的な部屋には安心感を覚えることを発見した私は、人の性質なんて案外いい加減なんだなと思った。ただ、部屋にいることに正直飽き飽きしている自分もいた。そして、この生活を窮屈に感じる自分もいた。苦しい。どうしてこんなに苦しいんだろう。じっとりと汗をかいた背中を鈍く感じとると、「多分暑いから苦しいんだ」という気持ちになったのでエアコンのスイッチを入れる。あ、電池が切れたんだっけ。新しいのどこだろう。とりあえず本体の電源を入れる。

 涼しくなってくると、幾分息苦しさも軽減されたように感じた。本を読んでいた。珍しく柔らかい文章の本を読んでいる。小説なんて年に2,3冊読むか読まないかくらいで、超のつく遅読である。だから読む本は選びに選び抜いたものが多い。けど、この本は違った。朝電話をした相手からこないだもらった本だった。借りた、のかな?どっちなのか良く覚えていないけれど、多分くれたんだということにしておく。さらさらと読める文章に、さらさらと入ってくる内容。砂時計のように時間とともに進んでいく話に、専門書にはない心地良さや面白さを感じていた。内容も息苦しさを感じている今の私には丁度良かった。旅行の話だったのだ。でも、私の息苦しさは彼女のように旅なんかで解決するものではなかった。もっともっと根深くて、どうしようもない問題だった。

 今まさに人生の岐路に立っている感じがしている。このままこの日常を続けるという選択と、日常と決別するという選択。「日常を続ける」のにも2つあって、新しい日常を受け入れるかどうか、という選択と、本当にこのままの状態を死ぬまで保持するという選択がある。親は私にいわゆる普通の人生を歩んでほしいと思っているし、他の周囲の人間も今のところそうなるだろうと思っているに違いないが、私はそこから一歩外へ出たい気持ちがますます強くなっている。人のために生きることを昔は選んでいたし、その道にいる間は死ぬまでそれをやり通せると思っていた。実際その道に進んでいればできたはずだ。でも、無理が祟って病気をしたことで私の人生は大きく変化した。一度こういう経験があると私は人のために生きられないんじゃないかという気がする。子のために生きたり、パートナーのために生きたり、そういうよくあることが私の自己中心的な性格のせいでうまくいかない気がするし、そういう性質を持っていると自覚しているのに、さも利他的に動けるように皮を被っている今の自分が憎い。なんだかこのままではいけない気がしている。

 感傷的な気分になった私は今こうしてまさに日記らしい日記を書いているわけだが、どうだろう。この日常、いつまで続けるんだろうか。続けられるんだろうか。本当に大切なものってなんだろう。肌の穴という穴にファンデーションを埋め込むような日常である。塗られた皮膚は平らになって、地の肌よりうんと綺麗になるし、色を上から塗ると映えてさらに綺麗になるいうことも分かっている。それに、メイクをすることで人に見られてもおかしくないのだという意識を纏えるのも重要で、ずっとずっと安心できる。安心できるのだけど、本当の肌はいつまでたっても本当の平らにはなってくれない。スキンケアには力を入れないの?と心の私が囁く。仮にスキンケアに時間とお金をかけたって、穴自体は埋まらないのも分かっている。どの道穴がある限りだめなんだ。そんな気になる。自分で選択してきた集積に満足している一方で、息苦しさも感じている。本当に強欲だと思う。でも何か捨てなければならない時期に来ているんだということも分かっていて、今、私は腕から溢れそうになっている宝物を歯を食い縛りながら抱えている。

必要な言葉をひとつひとつ積み重ねればいい

生活を楽しむということの難しさを考えたことがある人はどのくらいいるんだろう。最低限やらなければならないこと、それプラス暇な時間に何をするか、この2つで基本人生は構成されている。最低限やらなければならないことにも種類があって、もうこの時間にやると決まっているものと、いつまでにという期日はないけど、まあこのぐらいの間隔でやらないとまずいよねというものがある。あんまり人生を楽しむとかそういうスケールで話したくはないのだけど、人生を楽しめている人ってこの「最低限やらなければならないこと」を楽しんでいる人が多いように思う。私は普段楽しんでいる方だけど、ふと煩わしくなる時もある。何かこう嫌気がさすような、突然煩わしく感じるようなそんな時。もしその状態がずっと続いてしまったらどんなに生きづらいことだろう、と想像すると、生活が楽しめていない人の気持ちも少し分かるようになる。

今日は詩を書き上げた。書き上げたけど、まだここの話をもっと詳しく書きたいとか、こういう書き方じゃなくてもっと違う切り口があるはずなんだよもっと考えたいよと書き上げた側からあれこれ考えてしまっている。でも、この時に書いたこれはこうでなければならなかったのだし、あれこれ今から手をつけてもな、ということもありこのままの形に落ち着いた。まあ気持ちにケリはつけられたかな。

本を読み始めた。本自体はするする読めるけど、LINEが来て気になってしまったのでそこで読むのをやめてしまった。でもこれは早く読めそう。

今眠っている人が目覚めるのを心待ちにしている。そればかりが気になってしまい、新しい詩に手をつけられずにいる。次に書くものをどういうものにしようか少し考えながら、その人のことを考える。今では随分と私のことを知られてしまったなと思う一方で、私はそれほど相手のことが掴めているのか分からない。多分その人より洞察力はないし、考えもしてないと思う。なぜならその存在に触れると頭が真っ白になってしまうから、そして自我が邪魔をするから、相手を見つめることに注力できていないのだ。

花の詩を書きたいと思う一方で、それ以外の詩も書きたいという願望が混ざっている。焦る必要はない。必要な言葉をひとつひとつ積み重ねればいい。何も持ってなくても良い。自分の今あるものでつくることが何よりも大事。良く観たい。良く観て気づきを得てそれを書きたい。日記を書き始めてから、書くことへのハードルが下がりつつある。

今日は普段聴いている音楽も新鮮な音に感じられる。良い1日だと思う。買い物もしたし、何もかもがパーフェクトな感じがする。と思ったところで洗濯するのを忘れていた。洗濯しよう。洗濯をして、音楽の本を少し読んで、目覚めるのを待とう。こんな気持ちになるのも久しぶりだな。世界に、君にありがとうって言いたい。

「祈り」

何の特徴もない花を噛み砕き

滲んだ血で白い壁を塗り

ひしひしと心に亘る躍動に

狂気のしらべを君は見る

聴くのをやめろと言い做して

異なるしらべを君が聴き通うまで

私の心はどこへゆく

 

極寒の地へ行けども 光を閉ざせども安寧があり

いつまでたっても到達しえない

その境地は、花は袂にある

分かつまでは打ち守ると

時折嘔吐きながらも怺える

 

「花に特徴は本当にないのか」

「異なるしらべはいずこか」

色々な問いかけを私は飲み込み

ひとつの花を君に差しだし続ける

 

目に映らぬ侘しさを抱え

また血で滲む君の知らぬふりはできず

「袂にある花それには億万の繋がる脈があるのだ」と

生命の輝きと秩序の発端を見ている私は

そっと君の滲んだ唇に花で触れていう

 

血で染まる花びらを見

ふと気づいた私はさらにもひとつ気がつき

切り刻もうとした己の腕で花の絵を描き始めた

すごく切ない顔をしているなと思うことが時々あって

飛行機に乗っているであろう人を思いながら今から文章を書く。飛行機といえば、ある詩を高校の時に書いた。

『dreaming in the plane(飛行機の中で夢を見る)』

雲の上を抜けた深い虹の海を

銀の肌をした魚が泳ぐ

虹の色を纏った魚(わたし)は

燦然と輝く太陽を追いかけてどこまでもゆく

幾千の星達とともに虹色に輝く私は jewelry fish

彼方に焦がれて

大した詩ではないのだけど、雲の上の虹色の世界を飛行機が飛んでいて、その周囲の色を纏いながら彼方(かなたとあなたを掛け合わせている)を目指している。そんな話。書いた本人が明かしてしまうのはホントは良くないのだけど、少し言ってしまうと、例えば、音楽をやることの本当の喜びを知るためでなく、音楽をやっている好きな人を想い、その人と音楽をするためにピアノをやるのだめみたいなそういう話をここでは書いている。でもそのままでは一緒にいられない、みたいな。良いよね、「のだめカンタービレ」。

こんなにも明日が来るのが憂鬱になる時が他にあるだろうか、みたいな時間を今過ごしている。今日までが楽しかっただけに、この後と明日明後日を思うと深い溜息をついてしまう。体力に自信がなさすぎて、この3日間の予定をこなせるか、その前からもいろいろと計画していることができるかすごく不安だったのだけど、全部自分のやりたい通りにできて、願いが叶って良かったなと少しほっとしている。明日明後日を乗り越えないと、完全には喜べないのだけどね。

すごく切ない顔をしているなと思うことが時々あって、それはその人の持っているもの、デフォルトがそうなのか、そういう表情を出しているのかいまひとつはっきりとはしてない。その顔を見ると胸がきゅうと締め付けられて、抱擁したくてたまらなくなる。その瞬間を何度も思い出しては、ああ幸福になってほしいと思う。

新緑の美しさを、新しい命を私は摘み取り去ることができずに、そのまま水を与えてすくすく育つところを眺めてしまう。それは花を付ける前に何かの弾みでバッサリ切り取られてしまうこともあるし、花を咲かせたのにすぐに萎んでしまったものもある。新緑が顔を出した瞬間に踏み躙ったこともある。普通の人はそうするのだ、と言い聞かせて私は涙を流しながら踏んでクシャクシャになったその新緑の葉を埋葬したこともあったっけ。もうすでに枯れている何かを、枯れていないと言い聞かせる日常に、でも枯れていなくて変容しただけの何かは確かにここにあって、完全にそれが萎れるなんてことはないだろうし、かといって新しい命と共存できないそれをそのままにしておいて良いのか、どちらかを潰すしかないんだろうかと考えたり、またそういう状態のまま水やりをしてしまって現状維持を図ったり、人生とは迷いに迷うこともあるんだなと意味不明なことを考える今日この頃。とりあえず、美味しいアイスを買って2人で食べようと考えながら結局は1人ずつ別々に食べている日常がそこにある。

常が無いという状態に救われたり悲しんだりする

―今日という残余の中にあなたがいる―。

 

楽譜の風景 (岩波新書)

楽譜の風景 (岩波新書)

 

 『楽譜の風景』という本を見つけて買ってきた。この間ちょっと言ったことと関係もあるので一応載せておく。この間言ったというのはお菓子作りの話の時。楽譜と同じようにレシピには書かれていない情報がある、という話。楽譜には書かれていない情報が多い。でも、私は実のところ楽譜というものにあまり親しみがないなということに気づいた。最近はDTMMIDIでピアノロールを見ることの方が多い気がするし、演奏もこの頃はしていないので楽譜というものに触れない。このままでは楽譜が読めなくなってしまうかも?と少し危惧しているのもあって、楽譜の風景という文字が目に飛び込んで来た時、「あ、これこれ。こういうの欲しかったんだよね」とピピッと来た。すぐに読めそうな薄さだけど、遅読の私のことなので半年くらいはかかるんじゃないかと踏んでいる。長い。あまりに長い。音楽美論もなんだかんだでかなりの時間を要しているし、最近本当に本が読めていないなあと思う。このままでは病気直後の状態に逆戻りしてしまうね、悲しい。

メンタルの病気を持っている人に多いのが本が読めないという症状というか現象。何故なのか分からないけれど、集中力が著しく低下することと関連はありそうで、どう読めないのか普通の人にも分かるように説明したい気持ちが前々からあった。んー、例えば騒音の中で本を開くみたいな集中力が本当に続かない状態に置かれているというのと、本を読む!となるのにかなりの気合を要する。多分普通の人が「よし、今からプラモデルを作ろう!」とか「今から帽子を編もう!」とかそういう作る系の作業をする時くらいの気合が必要。この2つがネックとなり、なかなか読むことができないし、読み始めてもすぐに読みやめてしまうことが多い。辛いよね。でも、読まないことには治らない気もしている。昔みたいにすらすらーって読める時がいつか来てほしいなあ。

―結ばれた強い鎖も

錆びてしまえば脆くなり

愛しさはいつの日にか

枯れてしまうものでしょうか―

「遠い愛」という詩を高校の時くらいに書いたことがあって、サガンを見た時にふと思い出した。だから何ということはないのだけど、恋や愛は形を変えていくものであって、常に同じ感情を相手に抱くということはないよなとこの一節を見てもしみじみ思う。

常が無いという状態に救われたり悲しんだりする。喜びも悲しみも刻一刻と変化を遂げており、まるで次から次へとガラス工芸品の生成から崩壊を眺めているような気分になる。それほど壊れやすく危ういもので、しかし私にはそれが形として見てとれるわけで、この感覚はなんなんだろうか、共感覚として誰しもが持っているのかな、持っていてほしいなと思う次第。ミヒャエル=エンデの『モモ』に出てくる時間の花はまさにそれだったな、と今日エンデの本を探した時にイメージが湧いて、なんだか嬉しくなった。でも花のように美しいのかは甚だ疑問で無常とは、酷な時もあるよねと思う。何が言いたいかというと、1日1日を大切にしたいし、特にここ数日は大切にできた、大切にしているし、これからも大切にしていきたい感じだった。

すばらしい人生だったなと死ぬ時思えるようにしたいと常日頃思っていて、

きょうは本当に良い1日だった。

とうとうと流れる時間の波に

しおかぜを感じながら、

ちゃんと息をしている。そんな1日。

気を抜くとすぐ不思議な世界へ私の思考は飛び立つ

日本の色の名前って素敵な名前が多いな、と小学生の時24色和風ボールペンという不思議なボールペンを手に入れた私は物珍しそうにそのペンを眺めていた。というようなことを縹色という名を知った今思い出した。日本名の色は大人の色って感じがする。私達が普段使っている色鉛筆の色は西洋っぽい明るい色。そこに少しの暗さが混じると日本っぽい色になる。確かに海を例にして見ると、海外の海のような明るさは日本にはない。(沖縄はまた別だけど。)昔でいえば(時代によるけれども)西洋的な色彩の方が珍しかったのだろう。もし、西洋的な24色の色鉛筆が日本色の24色の色鉛筆だったら、クレヨンが日本色のものだったら、私達の色彩感覚はどんな風になっていたんだろう。西洋のものを見た時眩しすぎるなと感じたのかもしれない。音楽も、もし雅楽が音楽教育のベースとなっていたらどんな感覚を私達は有したのだろう。なんて気を抜くとすぐ不思議な世界へ私の思考は飛び立つ。自由だな。

今日は昨日仕込んでいたスコーンの仕上げをして、朝からできたてのスコーンをいただいた。作る関係で言えば、夜はミネストローネと鱈の香草パン粉焼きとレタスサラダを作ったのだけど、昨日今日と料理やお菓子作りの話をメインにしてしまうと、自分が読み返した時に「お腹いっぱい」感が否めなくなってしまうのでやめておく。

そういえばKATEのマスカラ下地を使ってみた。カールがキープされるとはどういうことかイマイチ分かっていなかったのだけど、なるほど持ち上げたまつげが上を向いた状態が維持されている!と皆なら予想できるであろうことを体験することで初めて理解した。そしてボリュームアップもロングも叶うらしい。バサバサのビヨンビヨンになっている。「あーん、まつげにボリュームがないよー、でも長さも欲しいし、カールもキープしたい!!」みたいなワガママな女の子の願望をこれ1本で叶えてしまうとはお主やるな…。なぜ今まで使ってこなかったのだろうと、少しだけ悔いたけれど、そこに至るまでにいろいろとあったわけで、うん、無駄じゃない、無駄じゃないよと言い聞かせた。まあそのまつげの話はまたするかもしれない。

いや、話をぶつ切りにしておいてなんだが、今日は特に話したいことがないのよね(何それ)

ところでブログの営業活動をしようとしたのだけど…いまひとつ分からなくてできなかった。前はもっとやりやすかったのだけど…どうなってるのかな。はてなブログはてなダイアリーって違うものなの?分からないな。

最後に音楽の話を少し。日本の音楽を私より良く聴いている人がいて、その人からいろいろと話を聞いていて、あ、歌詞ってやっぱり重要なんだなということにもう一度気付かされた。歌詞と音楽とは分けて考えることも多いのだけれど、やっぱり歌詞と音楽には相互作用関係があるのだから、一緒にして考える方がより良いよね、と。そして情緒的な側面はやはり言葉によるところが大きいなと感じていて、歌詞でしか表現できないものがある気がした。とかなりぼんやりはしているのだけど、もっと歌詞も読もうとすれば読めるんじゃないかと、楽しみをまた1つ増やすことができた喜びを以て今日は終わりとします。ではまた。

いつからだろう、自分のやっていることがすべて無駄ではないと思えるようになったのは

体がだるい時、私の場合眠れば解消されることが多い。でも、眠気がないのにだるい時はどうすれば良いのだろうといつも悩む。今日はそんな日らしい。早く寝て早く起きて行動したい。だるいまま行動することもできるけど、あまり身が入らないのでよろしくない。今日はお菓子を作ろうとしている。お菓子を作る時は心を込めて丁寧に作りたいので、半端なコンディションでは困ってしまう。

今日はいつもは使わないリッチなバターを買ってきた。それを使うことによってコクが出るそうだ。その名も発酵バター。名前からして美味しそうである。癖のない普通の無塩バターで作ったクッキーも好きだけど、バタークッキーとしてバターの香りを楽しむなら発酵バターがよりベターな気がする。失敗しないように丁寧に作ろう。

というわけで生地の仕込みをしてきた。体は依然としてだるいままだったけれど、眠気があまりないために眠ることができなかった。発酵バターを今回は人生で初めて使用する。絶対に美味しいと分かっていながら通常のバターの倍のお値段することを踏まえるとなかなか使おうという気にはならなかった。まあお菓子作りをこの頃していないせいもある。それは主に薬がきっかけで体重増加したせいで自分で作るとなると罪悪感がひどいからであった。

そんなこんなでクッキーを仕込み、食器を洗い、お米を仕込み、今に至る。ああ、私の苦手な15時台ももうすぐ終わりそう。15時台はダレるから好きじゃない、とツイッターに書いている。なかなか15時台を有意義だと思えるように過ごすのは難しい。日々の課題になっている。16時台からはやる気と体調が復活してくるので大丈夫、多分大丈夫。

今日は親子丼を作ることになっている。リクエストに応えたわけだが…うん、糖質多い食生活だよね、やだなあ、とぼんやり。ストイックすぎる内容も神経がすり減るから好きじゃないのだけど、あまりにも炭水化物だらけな生活もそれはそれでしんどい。丁度良いところを狙っていきたい。

あ、そういえば昨日作ったレタスのサラダが非常に美味だった。レタスを氷水に入れて葉っぱをいつも通りぶりぶりにし(私はこのぶりぶりという表現が甚く気に入っている)、ピーマンを千切り、サンドイッチに使用して残ったトマトをてきとうにカットし、玉ねぎをスライサーでスライスし、流水につけて辛みを取る。にんにくをすりおろし、極弱火でオリーブオイルと一緒に炒めて香りを出し、そこに短冊に切ったハムさんを加えて温め、その温めたものを野菜の中に放り込んで塩で味付け。食べる直前にバルサミコ酢を少量入れて和えたら完成。バルサミコ酢がない段階でとても美味しかったので、今度はバルサミコ酢なしでも作ってみたいなと思い、ここにメモしておく。

とまあ料理やお菓子作りの話をするだけで日記って書き終わっちゃいそうだなとここまで読み返して思う。料理やお菓子づくりはやるまでがなぜか辛い。まるで学校へ行く時のような、仕事に向かう時のような、そんなだるさと憂鬱さがある。なぜだろう。あらゆることに対して私は気負いすぎなのだと分析する。親戚の結婚式に出席したときも準備だけでひどく疲れてしまったし、好きなはずのこともやるまでが本当に苦しい。やり始めたら楽しめるのになと分かっていても苦しい。昔はもっともっと軽やかにできていた気がする。なんでも病気のせいにしてしまうのは違うと思うけれど、なんか病気のせいな気がしてならないんだよね。読書をする時に感じる抵抗感みたいなものは読書だけでなく、あらゆるシーンで散らばっていて、昔の私よりうんと疲れやすくなっているなと感じる。つまりストレス耐性が低下しまくっている。

筋トレのように精神も鍛えられたら良いのにな。とこれをやれば集中力がアップするよ、みたいなドリルはないかなーと思うことがしばしば。甘いですね自分。地道にやっていくしかおそらく道はない。病気のせいにして、仮に本当に病気のせいだったとしても、解決策がそれで分かるわけではないので、地道に。ね。このブログもある意味訓練の1つだし、私の今やっていること1つ1つが後に繋がっていく大事なプロセスなんだよと良く自分に言い聞かせている。いつからだろう、自分のやっていることがすべて無駄ではないと思えるようになったのは。若い頃というと大分年を取った人間のように受け取られるかもしれないけど、昔々はもっとニヒルな感じがしたものだなあ。ニヒリズムにはなんとも言えない魅力があるのだけど、幼い頃に読んだ『はてしない物語』の影響によってすぐにその虚無だったり、アパシー的なものだったりの状態から脱したような気がする。ありがとうエンデ。

もうすぐ生地ができあがるので、お菓子作りの話に戻ってみる。お菓子を作っているとつくづく「上手い」とか「下手」とかそういうことを考える。お菓子作りで上手な人と下手な人がいるとして、何が違うかというと「腕」と言ってしまえばそりゃそうなんだけれども、もっと良く見ていくと知識の量がまず違うのだと思う。お菓子が美味しくできるメカニズムを分かっていれば、多少ミスをしても大きな失敗をすることがないし、細かい予備知識があると一層美味しく作ることができる。お菓子のレシピって実は楽譜と同じで書いてないことが多くて、そこをどう上手く補うかで大分出来上がりに差がつくようになっている。だから、細かく書いてあるレシピが出回っても良いのでは?と私は思っているのだけれど、あまり見かけたことがない。不思議。まあ突き詰めると気温や湿度によってレシピが微妙に変わっていくほどの繊細な世界なので厳密に語るのが難しいのかもしれない。お菓子作りも料理も最高に美味しいものを求めるとなると、シビアさが求められるのは想像に易い。シビアと言ってもグラム数をきっちり計量すれば良いとかそういうことでなくて、気候に合わせてレシピを変化させたり、食べる人に合わせて変えたりというどちらかというと柔軟性と呼ぶべきなのかな?そういう世界だから、経験がものを言うというのは一理ある。そんな臨機応変に作れと言われても作れないよというのが私を含めた一般の人だと思うので、そういう人たちがどうすれば美味しく作れるか、というとやっぱりレシピを忠実に守るしかないんじゃないかな。その都度最適値に変更できれば最高なのだけど、改悪になる確率の方が高いので、始めはレシピを下手に変えようなんて思わないほうが良い。グラム数はきっちり守っておいて損はないだろう。(パンやうどんの生地作りとなると否が応でも水分の量を調整しなければならない時もあるが。)あと焼き加減だけは開きがあるので気をつけるべきだと思う。なぜなら家庭用オーブンは焼きムラがあるし、機種によって大分異なるらしいので。

そろそろ生地が完成するのでこの辺で切ろうかな。最後にお菓子作りをやってみたいけど難しそうだから作れないって人におすすめしたいのはチーズケーキ。フードプロセッサーに材料を入れてチュイーンしてして型に流して焼くだけでそこそこ美味しいケーキが作れるのでオススメです。失敗もしようがない。

料理の話もやれば長くなりそうなぐらい語れることがあるので、そのうちやるかもしれない。ではまた。