Emu’s blog

よくある日記

自然のような無秩序も、人が多く活動する場のような秩序もない

 七月十四日。正午。溢れんばかりの光を存分に吸い込んだカーテンを見遣る。気になってカーテンを少し開けると、触れた指が温かく、何か生命に触れたときのような生っぽさを感じる。無論相手はカーテンである。返事はない。しかし、変な思考を巡らせるおかげで、私には物と生き物の違いがどこにあるのか時々分からなくなる。

 外の様子をどのようであったか確認するようにカーテンの隙間から覗き込む。時折そのようにしなければ、私は自分自身が「活動をしている」ということさえ実感できなくなる。窓や扉で隔てられた家の中はエアコンの冷気でひんやりと涼しく、私以外何一つ動くことなく佇んでいる。宛ら死と隣合わせのような空間である。外の自然のような無秩序も、人が多く活動する場のような秩序もない。何もない。私は波打ち際に立たされている。死の顔をした波がじわじわと私の元に打ち寄せてくるような、穏やかな死をそこに見ることができる。

 外の世界の眩さをそのまま攻撃性の高さに置換してしまった私は、軽く眩暈を起こし、すぐにカーテンをピシャリと閉め、パソコンでカチャカチャとさまざまなことをし始める。ふと、桜の簪をネットサーフィンで見つけて暫く見つめていた。「…ねえ、あなた?」という声が聞こえる。ある物語を思い出して読んだ。簪の揺れる飾りと共に、はらはらと舞い散る桜の花びらが印象的。驟雨に見舞われ、その水滴によって黒髪や、髪についた花びらが輝いている。その物語では真っ暗な場面のはずなのだけれど、私には陽の出ていない夕方の薄明かりを想像していた。おそらく真夜中に桜を見に行ったことがないからである。真夜中に桜に会いに行くには、まず男性にならなければならない。となぜか思ってしまったので、現世では叶わぬ夢だなとやや切なくなった。なぜ男性でなければならないのか、理由はいくつかあるのだけれど、それを説明するのは野暮な気がした。

 ハンドメイドの桜の簪には、実際の桜とは異なる大きなめしべの柱頭がついていたけれど、花の中央に雨粒があるようにも見えて受け入れやすい違和感として私の中で処理された。

 短編小説には何か起伏のようなものがあるべきなのだろうか。死の淵にいる私は、ぼんやりとそのようなことを考える。私がこうして外の世界を遮断し、机上で空想を巡らせているうちは何も始まらない気がする。ただ、安易に物語として話を進めてしまうのもどうにも許し難い、そんな感覚だった。

 ここでいう生きるとは、どういうことなのだろう。遮断している外界の空気を取り込めば、あるいは外を駆け回れば生きたことになるのだろうか。自己増幅を果たせば、人と触れ合えば、何か夢を成し遂げれば……。いろいろあるけれど、今の私はそれらを考えることでしか自分を救えない気がした。発展というものは、何か形を成せば良いというものでもない気がする。思考こそ発展の源だ。と思いつきはしたものの、行動できない理由を並べ立てているような気がして、ほんの少し自己嫌悪に陥る。

 ここのところずっと考えているのは、考えずにまず手をつけられる人の強さだった。ずっと考えてしまっているのだから、私は自ずと彼らの輪の中には入れないことを認めていることになる。小説や詩との相性の良さを確認した上で、ハンドメイドとの相性の悪さのようなものを意識せざるを得なかった。これについていろいろな感情が湧いてくるが、簡単にいうとただ悔しいのだ。モノに執着することができないという部分が最もな理由だろうけれど、ハンドメイドという分野でこれが作りたい、あれが作りたい、というようにはあまりならない。本を見てもパッとしない。理想が高すぎるのかもしれない。試しに作業してみても、目の前のモノに愛着が持てない。でも、諦めきれない。好きな気持ちはどこかにあって、作りたいものはどこかにあって、きっとそれが見つからないだけなんだと思っている。

 カーテンで押さえきれない熱気が徐々に部屋に侵入してくる。十三時。生命の躍動をそのカーテンの熱気を通して感じながら、死んだような部屋の中で、私は小さく息をしている。