Emu’s blog

よくある日記

ありふれたものの中にこそ、私の求めるものがある

 最近小説を書いている。私小説に分類されるのかな。登場人物や物語自体はフィクションなのだけど、思想的な部分や、感じ方、時に出来事まで本当のことを書いている。この小説は、私が中学・高校の頃に書いていたものだった。主人公が絶望して壊れてしまうというような終わり方の短編小説が大本となっていて、そこに加筆していった。10代の私が詰まった小説。いわばフォトアルバムの文章版のようなもの。

 「ありふれた出来事」の小説をありふれているという理由で否定する人がいたけれど、私はそこに違和感を覚えた。ジャンルや設定、出来事といったものを否定して何になるのだろう。問題は内容じゃないのかな。ある出来事に対して登場人物がどのように感じて、どのように動いていくか。描き方、文体。そういったものを抜きに表層的な部分で否定するなんて全く無意味だ。

 そもそも本当にありふれているのだろうか。私達の経験は全く同じであることなんてない。それぞれが違っている。似ていることはあると思う、でもそのどれもがまたとない出来事のように思える。そして、出来事自体はありふれていても、仮に全く同じ内容だったとしても、経験者が同じでないし、経験する側は常にいろんな条件や環境によって感じ方も変わる。だから「ありふれた経験」なんてない。例えばCDの音楽は何度聴いても全く同じ内容だけれど、鑑賞者が「同じ」であることはない。感じ方は日によって違うし、年齢によっても違う。そのことを加味すると、CDの音楽を繰り返し聴くということだって同じ体験を何度もするということにはならない。

 共有されうるようなありふれたものの中にこそ、私の求めるものがある。小説には私がアルバムとして保存しておきたいことがたくさん詰まっている。例えば友達とのすれ違い。そんなことは誰にだってあるけれど、◯◯ちゃんとのすれ違いは私と◯◯ちゃんにしかない。そこからどんな風に歩み寄ったのか、歩み寄らなかったのか。◯◯ちゃんに対してどんな思いを寄せていたのか。そういうことは私の中にしかない。そういうことを表現して残しておきたい。この小説は他の誰のためでもなく、自分のためにある。でも、独りよがりに留まらないものである気もしている。

 本当は10代のうちに完成させたかったのだけれど、病気をして叶わなかった。それから時々書いてはいたのだけれど、ペースがものすごくゆっくりだった。これ以上ズルズルと書いていても、記憶が美化されたり、出来事が風化していったりするだけで大事にしたい出来事が壊れてしまいそうだなと思ったから、なるべく早く、でも焦らずに書ききりたいと思い、最近力を入れている。完成したら製本したり、データ化したりして、お世話になった人たちに贈りたい。読んでくれる人が待っていると思うと頑張れる。自分のための小説ではあるけれど、読む人に寄り添えるようなものにもしたいとも思っている。