Emu’s blog

よくある日記

続・秩序、無秩序

 蝉が死に絶えた。私が鬱で病んでいる間に。少し前まで命の奔流を感じさせる蝉の鳴き声が、焼けるような日差しがあった。色彩豊かな、過剰な外の世界があった。エアコンの効いたそのひやりとした部屋の中で外界とのギャップに死を見ていたのに。

 私は先日のブログ記事で「自然のような無秩序も、人が多く活動する場のような秩序も」と書いたけれど、自然にも秩序と呼べるものはある。私が意図したことは、そのようなことではなかった。静寂(音楽が流れていない音風景)をイメージして無秩序と呼んでいたり、言葉や音楽の世界を秩序と呼んでいたりしたけれど、そもそも人の織り成す秩序というものの多くは、自然をモデルにして作られている気がする。(音楽の立ち位置がここで少し分からなくなっている)

 以前Twitterでも秩序について話をしたことがある。その時は他者の為したものを秩序と呼び、自分のいる部屋を無秩序と呼んだ。部屋を掃除することはあっても、飾り立てるということをしない。その他者の何かを飾り立てる意識というものが私には魅力的に映る。しかし、自分でそれをしようとは思わないのだ。どうしてだろう。なんとなく空虚に思えてしまうから?意識が徹底されていないから?

 そこで浮き彫りになるのは自意識の薄さ。自分がないわけではないけれど、他者と関わる時、自分がどうしたいのかということをあまり考えていない。されて嫌なことはさすがに分かる。しかし相手が笑えば私も自然と楽しくなる。私は自分が楽しくなることで相手も楽しくなると思い込んでいる。それ以上のことは考えない。というより、考えられない。

 自分で心地良い場が作れないことは、自分で心地良いものが一切作れないことのように思えてしまう。なぜできないのか、どうしたらできるようになるのか全く分からない。でも、為そうと意識することは私の中ではなぜかあまり良くないことであるように捉えられている。作為的という言葉に疑心暗鬼しているせいだろうか。かといって人に任せきりなのも良くないのだろうけれど、他者はどんなバランス感覚でその辺りを対処しているのだろう。気になる。

 皆が当たり前にしていることが強く意識しないとできないような気がしている。秩序という話からはやや逸れてしまうが、例えば「髪が伸びて来たから美容室に行きたい」「この髪型に飽きたから美容室に行きたい」という感覚が備わっていない。店員さんに尋ねて美容室の頻度を知ってそれを目安に通っているようなそんな具合。「最低でも3ヶ月に1回は、前髪だけは月1回は……」この言われた頻度を守れていないと「私は人間ではないんじゃないか」と大袈裟に考えてしまうこともある。美意識が低いと言われればそれまでだが、美意識が全くないわけではないため、なんとなくそう表現することに違和感を覚える。洋服を買うタイミングも良く分からない。「買いたい時に買えば良い。」その通りなのだけど、買いすぎている気がしたり、買わなさ過ぎている気がしたり意識が疎らでどうしても不安になる。正しさというものが明確にないことに関して、怠惰はどこまで許容されうるのかということを最近よく考えているように思う。これも鬱のせいなんだろうか。

 主体性というものがあまりない気がしている。今からでも養うことはできるのだろうか。できるのだとしたら、何をしたら良いのだろうか。「人間じゃないかもしれない」。この不安は一体どこから来るんだろう。最近そんなことばかり考えている。浮世離れしかけているのだろうか。