Emu’s blog

よくある日記

読んだ人が幸せな気持ちになるような書きものをしたい

気がつけば4月ももうすぐ終わり。日記を書きたい気持ちは常日頃あったのだけれど、なかなか時間と体調の都合が良い時が見つからず現在に至る。ここ最近考えていたことなのだけれど、私は読んだ人が幸せな気持ちになるような書きものをしたい。ところが、そういう願いのもとに書いている人というのは実は少ないのではないか、ということに気づいたのだった。

じゃあどんな人が他にいるの?という話になる。例えば自分の居場所をつくりたくて書いている人がいる。これは相当数いそうな話であるし、私もそういう一面は無きにしもあらずである。しかし、それを他者への攻撃によって成そうとする人がいる。しかもそれを攻撃ではなく批判であると主張する。自分の作品をより良くするためのものであるという。これには大変驚いた。確かに批判的な目というものは、文章を書くだけでなく、読む上でもあったほうが良いものであると思うし、実際中学か高校の時にそのように習う人も多いだろう。しかし、それを自分の作品のためであるなら一層、人に見せるものではないのではないか。例えば議論をしたいのなら、問題提起という形にすれば良い。ただ、批判する(というより文句をつけると言った方が正しいのだが)形を取り、それを人が見える場面でする。しかも自分の作品のみならず、他人の作品にも同様のことをする。批判をするからにはその人はその作品がどうしたら良くなるか分かってなければならないし、そのように道筋を示すも時には必要かもしれない、しかし、そのようなアドバイスをすることもない。そもそも批判ではないのだ、口汚い言葉で罵っているようにしか見えない。

批判というものは、本来なら慎重に行われるべき行為であると思う。なぜなら、芸術という広い世界において、「こうであるべき」姿というものは提示しにくいからだ。その中で良くない点やこうした方が良いと指摘する時、人は啓蒙的になる。啓蒙的になるからには、その作品が批判によってベターにならなければならない。つまり、批判者というのは、まず、作者と同等あるいはそれ以上に作品を理解している必要がある。「そんな難しいことなかなかできない」「批判をする時、同時に反論しうる事項についても考える必要があるのでは」全くその通りだ。だから、批判はそう簡単にできるものではないのだ。自分自身に問うてみてもそうであるし、他者の作品となると尚更である。批判者は作り手がその作品を作った責任以上の責任を取らなければならない場合もあるだろう。

実は、私は人から指摘されるまであまり作品を作る(作った)ことへの責任というものは感じていなかった、というより考えないようにしていたのだけれど、それがたとえ政治性を帯びていないものだとしても、全くその問題からすり抜けることはできないのだということを改めて認知し、少し考えてみようかなという気持ちでいる。それは、間接的に批評をする時にも影響するし、鑑賞する際にも関わってくることだ。以前から気にしている「良い作品とは何か」という問いかけを考える時にもほんの少し思い出したい。作っている時に考えるのは難しいけれども。そして批評をする際はより意識をすべきだと攻撃的な文章を見ていて感じた。