Emu’s blog

よくある日記

私の頭の中を縦横無尽に走って延々とループする

―貴方の代わりなんていやしない

そんな歌が頭の中でぐるぐると駆け巡っている。関係性という名前のついた何かであれば代替可能であるとは言えるが、人が違うのだから全く同じような機能を果たすわけではないだろう。でも、何故だろう。頭の中を無断に行き来する言葉が気に食わない。私という意思はそれを望んではいない。つまり、音楽が煩わしい、言葉が鬱陶しい。その言葉の意味には同意するけれど、今それについて考えたいわけではない。音楽のこういうところが嫌いだった。勝手に私の頭の中を縦横無尽に走って延々とループする。

雨で濡れたスリッパを避けて、靴を履かずに靴下でコンクリートの上に乗る。雨風が強い中、洗濯物をかごに移し替えた。洗濯をするのは嫌いじゃない。まあ、洗濯をしているのは洗濯機なので、洗濯物をかごに入れて洗剤と柔軟剤を投下し、スイッチを押すだけなのだけど、この一連の流れを好ましいと思うのは何故だろうか。そして、洗濯物を干すと外が雨だろうが晴れやかな気持ちになる。実に不思議である。「靴下は履き口を上にして干すのが良い」と靴下屋という靴下を売っているオンラインショップの説明書で見かけて以来、靴下を干す時はいつもそのことを思い出す。得意げに足先を上にして干す主婦も多いのだろうなと思うと、ちょっぴり優越感を抱いてしまう。何故履き口を上にするのかというと、もし下にして水が溜まる状態が続いてしまうと、ゴムを傷めてしまうからだった。

コーヒーを飲みながらぼーっとしていると、ふと、今日特に印象的だった話を思い出す。話を聞きながら、俗世間ってそんなに嫌なものなんだろうか、もし俗世間に対して肯定的な文筆家がいるなら、それはそれで面白いことだよなあなんてちょっと外れたことを考えてしまっていた。私は社会と上手く関わっている自覚がないし、実際あまり強くは結びついていないのだと思う。自分は触れず、ほとんど傍観しているような感覚。この感覚は、時折自分の意識全体に纏わりつく。社会的な関わりどころか、人生そのものを何故か傍観しているようなそんな感じに陥ってしまうときがあるのだ。これにはさすがに参ってしまう。私は切実に為していたいのだ。ところがきっと「痛み」の少ない生活を送っているせいだろう。何かイレギュラーが起こってもなんとかなるだろうと思っているし、実際なんとかなってしまう。刃物で身体を切り刻みたい時というのはこの「痛み」を感じたい時であることがほとんどだ。鋭い「痛み」を発作的に欲することがある。かっこつきの痛みにしているのにはわけがあって、何も痛覚を刺激するものでなくても良いということだ。例えば、目の覚めるほど美味しいご飯を食べるだとか、激しい愛情を身体を通して感じるだとかそのようなことで良い。普段からそんな過剰な刺激を欲しているわけではない。人生を傍観している感覚に陥ってしまう時だけであって、日常では低刺激でも積み重なるとそれによって覚醒したり、しっかりと実感したりすることができる。できれば平和的でいたいので、感受性を鋭敏にして低刺激な生活を送っていたい。

そんなことを書き綴っていると、彼からLINEが来た。想定していた時間より随分と早い。彼がシャワーを浴びている隙に私は夕食を作って食べた。私がお風呂に入るのは後回しかな。彼中心に生活が動いている。幸福なことだ。それでも音楽を作る時間もあり、こうやって物を書く時間もある。幸福なことだ。明日はそんな時間もないかもしれないと思うと少し悲しいけれど、生活のバリエーションの豊富さもおそらく今しか味わえないのではないかと考えていて、だからこそ苦しまずに過ごせているのだと思う。まだまだ書き足りないけれど、今日はこの辺で。