Emu’s blog

よくある日記

すごく切ない顔をしているなと思うことが時々あって

飛行機に乗っているであろう人を思いながら今から文章を書く。飛行機といえば、ある詩を高校の時に書いた。

『dreaming in the plane(飛行機の中で夢を見る)』

雲の上を抜けた深い虹の海を

銀の肌をした魚が泳ぐ

虹の色を纏った魚(わたし)は

燦然と輝く太陽を追いかけてどこまでもゆく

幾千の星達とともに虹色に輝く私は jewelry fish

彼方に焦がれて

大した詩ではないのだけど、雲の上の虹色の世界を飛行機が飛んでいて、その周囲の色を纏いながら彼方(かなたとあなたを掛け合わせている)を目指している。そんな話。書いた本人が明かしてしまうのはホントは良くないのだけど、少し言ってしまうと、例えば、音楽をやることの本当の喜びを知るためでなく、音楽をやっている好きな人を想い、その人と音楽をするためにピアノをやるのだめみたいなそういう話をここでは書いている。でもそのままでは一緒にいられない、みたいな。良いよね、「のだめカンタービレ」。

こんなにも明日が来るのが憂鬱になる時が他にあるだろうか、みたいな時間を今過ごしている。今日までが楽しかっただけに、この後と明日明後日を思うと深い溜息をついてしまう。体力に自信がなさすぎて、この3日間の予定をこなせるか、その前からもいろいろと計画していることができるかすごく不安だったのだけど、全部自分のやりたい通りにできて、願いが叶って良かったなと少しほっとしている。明日明後日を乗り越えないと、完全には喜べないのだけどね。

すごく切ない顔をしているなと思うことが時々あって、それはその人の持っているもの、デフォルトがそうなのか、そういう表情を出しているのかいまひとつはっきりとはしてない。その顔を見ると胸がきゅうと締め付けられて、抱擁したくてたまらなくなる。その瞬間を何度も思い出しては、ああ幸福になってほしいと思う。

新緑の美しさを、新しい命を私は摘み取り去ることができずに、そのまま水を与えてすくすく育つところを眺めてしまう。それは花を付ける前に何かの弾みでバッサリ切り取られてしまうこともあるし、花を咲かせたのにすぐに萎んでしまったものもある。新緑が顔を出した瞬間に踏み躙ったこともある。普通の人はそうするのだ、と言い聞かせて私は涙を流しながら踏んでクシャクシャになったその新緑の葉を埋葬したこともあったっけ。もうすでに枯れている何かを、枯れていないと言い聞かせる日常に、でも枯れていなくて変容しただけの何かは確かにここにあって、完全にそれが萎れるなんてことはないだろうし、かといって新しい命と共存できないそれをそのままにしておいて良いのか、どちらかを潰すしかないんだろうかと考えたり、またそういう状態のまま水やりをしてしまって現状維持を図ったり、人生とは迷いに迷うこともあるんだなと意味不明なことを考える今日この頃。とりあえず、美味しいアイスを買って2人で食べようと考えながら結局は1人ずつ別々に食べている日常がそこにある。