Emu’s blog

よくある日記

常が無いという状態に救われたり悲しんだりする

―今日という残余の中にあなたがいる―。

 

楽譜の風景 (岩波新書)

楽譜の風景 (岩波新書)

 

 『楽譜の風景』という本を見つけて買ってきた。この間ちょっと言ったことと関係もあるので一応載せておく。この間言ったというのはお菓子作りの話の時。楽譜と同じようにレシピには書かれていない情報がある、という話。楽譜には書かれていない情報が多い。でも、私は実のところ楽譜というものにあまり親しみがないなということに気づいた。最近はDTMMIDIでピアノロールを見ることの方が多い気がするし、演奏もこの頃はしていないので楽譜というものに触れない。このままでは楽譜が読めなくなってしまうかも?と少し危惧しているのもあって、楽譜の風景という文字が目に飛び込んで来た時、「あ、これこれ。こういうの欲しかったんだよね」とピピッと来た。すぐに読めそうな薄さだけど、遅読の私のことなので半年くらいはかかるんじゃないかと踏んでいる。長い。あまりに長い。音楽美論もなんだかんだでかなりの時間を要しているし、最近本当に本が読めていないなあと思う。このままでは病気直後の状態に逆戻りしてしまうね、悲しい。

メンタルの病気を持っている人に多いのが本が読めないという症状というか現象。何故なのか分からないけれど、集中力が著しく低下することと関連はありそうで、どう読めないのか普通の人にも分かるように説明したい気持ちが前々からあった。んー、例えば騒音の中で本を開くみたいな集中力が本当に続かない状態に置かれているというのと、本を読む!となるのにかなりの気合を要する。多分普通の人が「よし、今からプラモデルを作ろう!」とか「今から帽子を編もう!」とかそういう作る系の作業をする時くらいの気合が必要。この2つがネックとなり、なかなか読むことができないし、読み始めてもすぐに読みやめてしまうことが多い。辛いよね。でも、読まないことには治らない気もしている。昔みたいにすらすらーって読める時がいつか来てほしいなあ。

―結ばれた強い鎖も

錆びてしまえば脆くなり

愛しさはいつの日にか

枯れてしまうものでしょうか―

「遠い愛」という詩を高校の時くらいに書いたことがあって、サガンを見た時にふと思い出した。だから何ということはないのだけど、恋や愛は形を変えていくものであって、常に同じ感情を相手に抱くということはないよなとこの一節を見てもしみじみ思う。

常が無いという状態に救われたり悲しんだりする。喜びも悲しみも刻一刻と変化を遂げており、まるで次から次へとガラス工芸品の生成から崩壊を眺めているような気分になる。それほど壊れやすく危ういもので、しかし私にはそれが形として見てとれるわけで、この感覚はなんなんだろうか、共感覚として誰しもが持っているのかな、持っていてほしいなと思う次第。ミヒャエル=エンデの『モモ』に出てくる時間の花はまさにそれだったな、と今日エンデの本を探した時にイメージが湧いて、なんだか嬉しくなった。でも花のように美しいのかは甚だ疑問で無常とは、酷な時もあるよねと思う。何が言いたいかというと、1日1日を大切にしたいし、特にここ数日は大切にできた、大切にしているし、これからも大切にしていきたい感じだった。

すばらしい人生だったなと死ぬ時思えるようにしたいと常日頃思っていて、

きょうは本当に良い1日だった。

とうとうと流れる時間の波に

しおかぜを感じながら、

ちゃんと息をしている。そんな1日。