Emu’s blog

よくある日記

美味しそうな匂いがたちこめている

美味しそうな匂いがたちこめている。この時間が何より幸福でたまらない。煮込み料理というのは時間をかけなければならないけれど、手数がさほどかからないので簡単で良いなあと思う。時間がかかっているのでなんとなくありがたい気持ちにもなれるし、実際人に作ると「わあ、手間暇かけてくれてありがとう!」などと言われる。気持ちが良い。

ここ半月ほど体調を崩している。本当にぐずぐずといった感じ。幸いメンタルには影響があまりなくて、毎日幸せだなあなんて思いながら過ごしているのだけど、体調だけがどうも上手くいかない。読みたい文献もたまっているし、音楽も中断せざるを得ない感じ。というか、家事さえ満足にできないので、家の中の環境が徐々に悪化しているのを感じている。良くない。最高のパフォーマンスをするためにはやっぱり環境というものは大事だろうと良く思う。掃除ができているかどうか、というのは健康状態を見る1つの指標でもあるし、片付いた部屋は視線があちこちにいかないので、作業に集中しやすい。ともあれ、まず、健康であることが前提条件にあるのだから、私はそこを良くすることが最優先事項なのだけれど。

スペアリブをときどきひっくり返しながら、この日記を書いている。豚のスペアリブなんて美味しいの?食べにくいだけじゃない?と前まで思っていたのだけど、以前行ったイタリア料理のお店で食べたスペアリブがなかなか美味しかったので、家で作ってみても良いなあと考えていた。考えてはいたのだけど、値段が高い上に食べにくいときたらそこまで買う気がしない。今回買ってきたのは豚の細切れと同じ値段になっていたからだった。上手くできると良いなあ。そしてサラダは水菜と玉ねぎをバルサミコ酢ドレッシングで味付けしてみた。バルサミコ酢はどうして匂いがあんなにきついのに食材を美味しくすることができるんだろう。不思議。

思考の停滞を感じる。先週辺りは確か、イライラしていたんだっけ。思考も散らかっていて、大変だったけれど、今はふさぎ込むことはないにせよ、少し鬱っぽいなあといった感じであまり良い気がしない。でも、こういう時は読書が捗る。今日はりんごくんのレポートを読んだ後に読む本を決めた。前から気になっていた『現代音楽の美学』。A.ゴレアという知らない人が書いた本。この人物について少しは調べた方が良いかも。野村良雄訳なので安心感がある。野村良雄は訳もできるのか、音楽美学の世界の人たちはすごいな、などと思いながらペラペラめくると、ドビュッシーという字が踊って見える。中古の本なので線も引いてある。ちょっと引きすぎでは?というぐらい引いてある。人の「ここは重要だな、なるほど」と思った部分が見られるので、そういう意味では中古の本が好き。久しぶりに音楽美学関連の本を読むので気合も入るし、ワクワクもしている。

そろそろ時間になるので書き終えるけれど、どういう言葉で終わろうか考えていなかったのであたふた。変わったところがさほどない、けれどもきちんと幸福である、そういうような幸福な日常を描くのは、悲痛な思いが募り、それを書きつけるときよりもずっと難しいなと実感する1日でした。幸福はいろいろなものを停止させるね。

読んだ人が幸せな気持ちになるような書きものをしたい

気がつけば4月ももうすぐ終わり。日記を書きたい気持ちは常日頃あったのだけれど、なかなか時間と体調の都合が良い時が見つからず現在に至る。ここ最近考えていたことなのだけれど、私は読んだ人が幸せな気持ちになるような書きものをしたい。ところが、そういう願いのもとに書いている人というのは実は少ないのではないか、ということに気づいたのだった。

じゃあどんな人が他にいるの?という話になる。例えば自分の居場所をつくりたくて書いている人がいる。これは相当数いそうな話であるし、私もそういう一面は無きにしもあらずである。しかし、それを他者への攻撃によって成そうとする人がいる。しかもそれを攻撃ではなく批判であると主張する。自分の作品をより良くするためのものであるという。これには大変驚いた。確かに批判的な目というものは、文章を書くだけでなく、読む上でもあったほうが良いものであると思うし、実際中学か高校の時にそのように習う人も多いだろう。しかし、それを自分の作品のためであるなら一層、人に見せるものではないのではないか。例えば議論をしたいのなら、問題提起という形にすれば良い。ただ、批判する(というより文句をつけると言った方が正しいのだが)形を取り、それを人が見える場面でする。しかも自分の作品のみならず、他人の作品にも同様のことをする。批判をするからにはその人はその作品がどうしたら良くなるか分かってなければならないし、そのように道筋を示すも時には必要かもしれない、しかし、そのようなアドバイスをすることもない。そもそも批判ではないのだ、口汚い言葉で罵っているようにしか見えない。

批判というものは、本来なら慎重に行われるべき行為であると思う。なぜなら、芸術という広い世界において、「こうであるべき」姿というものは提示しにくいからだ。その中で良くない点やこうした方が良いと指摘する時、人は啓蒙的になる。啓蒙的になるからには、その作品が批判によってベターにならなければならない。つまり、批判者というのは、まず、作者と同等あるいはそれ以上に作品を理解している必要がある。「そんな難しいことなかなかできない」「批判をする時、同時に反論しうる事項についても考える必要があるのでは」全くその通りだ。だから、批判はそう簡単にできるものではないのだ。自分自身に問うてみてもそうであるし、他者の作品となると尚更である。批判者は作り手がその作品を作った責任以上の責任を取らなければならない場合もあるだろう。

実は、私は人から指摘されるまであまり作品を作る(作った)ことへの責任というものは感じていなかった、というより考えないようにしていたのだけれど、それがたとえ政治性を帯びていないものだとしても、全くその問題からすり抜けることはできないのだということを改めて認知し、少し考えてみようかなという気持ちでいる。それは、間接的に批評をする時にも影響するし、鑑賞する際にも関わってくることだ。以前から気にしている「良い作品とは何か」という問いかけを考える時にもほんの少し思い出したい。作っている時に考えるのは難しいけれども。そして批評をする際はより意識をすべきだと攻撃的な文章を見ていて感じた。

「水のもの」

澄んだ貴方

飲み干す私

不純なものが

押し出されていく

透明な貴方は

身体中を巡り

そして

私に取り込まれる

夢は叶えられ

ひとつにふたつがあるようだ

 

波紋を呼ぶ静かな水面

衝動を喚起するその力を前に

風はヒュウヒュウと

全身を震わせて

揺れることしかできない

そんなちっぽけな存在を

貴方は大きく見せてくれる

 

心の汀を通り抜け

多くの光を反射して

いつまでも魅了する

空しく光る海面に

重ねた時間を回顧して

海と川の交じる地点で

風ははらりと翻る

前に進みたくないなら別に進まなくていい

空虚が私を支配している。未だありがとうの言葉ひとつさえ出てこない。感情と表情が一致しない日々を過ごしている。まだやり直せる機会があるんじゃないかと1人でいると考えてしまう。でも、触れるともうだめなのかなという気がしてしまうし、自分でチャンスを潰しておいて再びチャンスを伺うのは矛盾というやつだ、という当たり前の指摘をもうひとりの自分から受ける。一体何がしたいんだろう。まあ前に進みたくないなら別に進まなくていい。自分が1人取り残されるだけだから。ただ気を張らずにゆるりと過ごしてゆく。

いつもと違う道を通る。彼と一緒に。柔らかい日差しが肌に融けていく。公園に溢れる生命力が眩しくて私にはひどくもったいない気がした。彼が語りかけてくる。私も朗らかな気分でいるフリをして相槌を打つ。フリをしているとだんだんと本当になっていくけれど、彼と別れるとすぐさまその陽気は薄らぎ、私は別の人のことを想ってしまう。関係がどうなろうともこの性質は変えられない。きっと、別の人と暮らしても、私の心は幾人もの人を想う気持ちで溢れてしまうのだろう。

新しいことを書きたいなと思いながら、私の心はぐるぐるなりっぱなしなのだから、それは不可能なのかなあとブログを見返しながら考える。少しずつの変化はあるのだろうか。確かに形としては移り変わってはいくのだけれど、好きな人のことはずっと好きだ。

読書がしたいな、とふと思う。したいならすれば良い。しかし、今読むべき本が見当たらない。読みたいものはある、読みかけの小説、読みかけの友達のレポート、読みかけの専門書…。どれも今じゃない気がする。今の私には何が良いんだろう。詩が良いのかもしれないなという感覚はあるけれど、誰の詩が良いのかが分からない。すっと入ってくるものが良いなとなんとなく思う。思うけれど、思うだけに留まっている。

作曲もしたくてとりあえずソフトを立ち上げたけれど、最初のコードを決めただけで、なかなか上手くまとまらなくて形にはならなかった。歌うと気持ちの良い音楽を作ってみたいと漠然と思う。バラードが良いとも思う。やりたいことはぽつぽつ決まってはいる。あとは具体的にコードを組み合わせて旋律を乗せていけば良い。サビから作った方が効率が良いことは前から分かっていて、それを実践に移したことがなかったので、やってみたい。できれば今の感情を乗せられる曲にしたいけど、あまり制限をかけると作りづらくなるのでその辺は無視しておく。

春になると必ず新しいことを始めたくなり、何かしらやってはみるものの長続きしない。自分の平凡さを確かめるだけに終わる。住む場所を変えるため、生活は新しくなるけれど、今年は新しいことは始めずに、今やっていることかその延長でやりたいことをやろうと思う。

ここが限界点かなと思った。限界に来て私は1つの気付きを得た。どちらにせよ1人で決められることではなかったのだ、と。何かを選ばなければならない時、それを人と共に行うという考えがあまりなくて、私は1人きりでいるときに1人きりで考えなければならないと思っていた。実はそうではなかった。私は結局最後の最後で決断するのを諦めて、他者に委ねたのだ。委ねるということが私の決断であった。

こんなことをいうとあらゆる方面から非難が来るかもしれないけれど、誰かと共にいるということを私は単にタイミングの良し悪しで選択した節がある。もしかしたらタイミングによっては別の人と一緒に居たかも知れない。どう考えても「この人でなければダメなんだ」ということはない気がしている。ゆえに、私は本来的には誰かと共にいるということはやはり合わないのだと思う。「この人しか見つめられない」、そんな感覚にならない。「この人を幸せにしたい」、そんなことは願わない。私という人はどこまでいっても自己中心的で、どうしようもなく気まぐれで、ある日突然いなくなる。ところが、「それでもいい」と言ってくれる人がこれまでを考えると相当数いたし、いる。これを幸福と呼ぶのだろうか。あるいは呪縛?何にせよ、私にとっては普通ではなく、大変に不思議なことなのだ。

                                                                                                   

私が桜をじっくりと鑑賞する前に、ツイッターのフォロワーさんたちが桜の写真を多数アップしていたのでその写真を眺めてしまった。ああ、私の「春」はこれで終わりなんだろうか。そんなことを考える。実際の桜に触れる前に春が終わるなんて、あまりに辛すぎる。思い描いた春は、そして桜は本当に綺麗で、私はその春の桜にずっと触れたくて長い冬を耐え忍んでいたはずなのに、いつの間にか桜が手元から離れてすでに咲き誇っている。春は私を通り過ぎて勝手に終わろうとしている。私は一体何を待っていたのだろうと唐突に空に投げ出されたような感じがしていた。ぼんやりと虚無を眺めている。そして眺めたまま、ぼんやりと一生を終えたいような気がした。そうはいかないのが人生だけれど。

 

いわゆる喪失感なんだと思う。ある決断をしたことで大事なものをなくしてしまった。同時に得たものが何なのかも良く分からない。でも私はそうなることを望んだんだろう。あらゆるタイミングによって。

時のせいにして、罪を周りに擦り付けようなんて思ってはいない。でも、やっぱり時のせいもあるんだと思う。そして私はサガンの『ブラームスはお好き』のラストをなぜか思い出す。「私はもうおばあちゃんなのよ」と若い青年に対して言うあれを。老いのせいになんてしたくない。けれど、なぜか思い出してしまう。重ねたくないのに。

 

自分で決めたことなのに、きっと私は、それぞれがそれぞれの人生を歩んでばらばらに変化していく過程で、そのことを憂うのだろう。終わりを見つめられる関係でないことを、ひどく悔いてしまうのだろう。それでも許されることなら、私はまだ関係を続けたい。どんな形でもいいからいつか切れてしまうその日まで繋がっていたい。そう願っている。

人間になりたかったものたちの声

ある時は「メッセージ・イン・ア・ボトル」になって。

またある時は、「送り名のない手紙」となって。

いつ、どこで、誰が手にするか分からない瓶の中の手紙になって、偶然貴方に見つけてもらい、読んでもらいたい願望がある。そんな奇跡的なことが起こった日には、私は間違いなく恋に落ちるだろう。

私と知らせなくても、それを読んだ貴方が私を見つけてくれはしないだろうかと微かな期待を込めて手紙となり、見つけてもらった日には、涙を流してこの世界で貴方と出会えたことを大いに喜ぶだろう。

私は「ことば」となって、貴方の中に入り込みたい。貴方に扱われたい。そんな願望がある。

嘘をついた。私は「ことば」自身にはなりたくない。貴方と手を繋げる、寄り添える「人間」になりたい。猫でも小鳥でもない、人間である。

―――

もう忘れ去られてしまったのかもしれない。今後貴方が私に触れることはあるのだろうか。触れられず、部屋にひっそりと身を潜めている私は、そのつぶらな瞳で貴方を見ている。夢中で語るそのスマートフォンの向こう側には一体誰がいるのだろう。ねえ、私のことも見てほしい…。定点カメラのごとく、私は貴方を同じ場所から見つめ続ける。目に写る貴方の様々な表情に魅了され、私はそれだけで胸が高鳴り、体中が熱く紅くなる。この火照りきった体の行く末は……。ただ冷えるのを待つことしか許されないのかしら。行き場のない想いは冷えてゆくだけね。

せめて読まれる本の一冊になりたかった。貴方が真剣な眼差しで自分を見つめてくれる、涙したり、顔を綻ばせたりしてくれる。その顔を、一番近くで見られた。ただ、出会いは一時で、本棚にとどまることを許されないかもしれない。図書館に返されたり、売られたりするかもしれない。それでもこの小さな動けない体のままよりはずっとずっとマシだろう。

楽しそうに話をする貴方の声が聴けるだけでも喜ぶべきことなのかもしれない。初めて私を手にとったときの貴方の表情を思い出すと、もっともっとと欲望が湧いてくるけれど、醜い自分の容姿を思うと、現状で満足しなきゃいけない気がする。こんなに醜い姿の私に笑顔を向けてくれること自体が奇跡だったのかもしれない。

出会った季節がまたやって来て、私の存在を思い出してくれることがあったら、もう一度笑って撫でてほしい。私は全身を紅くして、貴方の側にいられる喜びを示すから。

 

 

※ひまつぶしに書いた文なのでいろいろと気にしないでください。

何かを得るということは、何かを失うということ

私は決して退屈な人生を歩んでいるわけでも、平坦な毎日を過ごしているわけでもないのだけれど、1人の時間が多い故に他者からはやはり退屈そうに見えているのではないか、というどうでも良いようなことを考えてしまうことがある。仮にそうだとして何が悪いんだろうとも思う。

ぴたりと世界が止まる。ネットの、ツイッターの世界だ。ある人と話をしていて、私はネットに何を求めているのだろうかと少し考えてしまった。人がいるということをただ実感したいだけな気がするのだけど、どうだろうか。あるいは「ねえこれ見て」と言える親の代わりを探しているのかもしれない。「今日こんなことがあったよ」といつでも言える恋人の代わりを探しているのかもしれない。あるいは様々な世界を眺めていたいがために、多くの「人」というチャンネルをガチャガチャと回して自分と近似でありながら違うものの人生の行方を追っているのかもしれない。趣味が悪いと思われるかもしれないけれど、皆も同じようなことをやっているのだと思う。少なくともネットにいる人達は。

最近気がついたら音楽ソフトを立ち上げていることが多い。それ自体は良い傾向だし、実際音楽に関わる時間は以前より増えつつある。ところが、本に触れる時間がその分減ってしまった。仕方がないことではある。何かを得るということは、何かを失うということなのだろう。両方一日のうちにできればベストなのだけど、自分の気分はそう簡単に切り替わるものではない。音楽をしている時は音楽だけになることが多い。最近音楽ばかりをやっていて嫌な感じがするのは、ただ思考を巡らせることなくとにかく手を動かしてしまっているからだと思う。前に思考ばかりを働かせていた時は、考える余地もなく手を動かせる人って素敵だな、と思っていたが、いざなってみると全く空虚で仕方がないなという所感。オリジナル曲をぽんぽん作れていればまた感じ方は違うのだけれど、アレンジのレパートリーに行き詰まっているためにひたすらコピーをして、それをアレンジするというやや退屈な作業をやっている。その曲を理解するとき、確かに感動のようなものはあるし、良いアレンジが出来た時は嬉しいのだけれど、オリジナルではないという意識が貼り付いて良くない。目に見えぬ他者が私を馬鹿にしている。過剰な自意識の仕業だ。私はなるべくその空想の他者の言葉を真に受けないようにしている。自分を馬鹿にする自分がいることは仕方ないことだし、まだまだ何もかもが上手くいかないのはそれだけ発展性があることなのだから、喜んでも良いのかもしれないけれど、やはり焦ってしまうことはある。毎日同じようなメンタリティで過ごせるわけがないのだから。

人間関係にもガタが来ている。そのごたつきがメンタルに影響し、体調に影響し、創作活動をやるときのコンディションに影響しているのが良く分かる。気候の変化のせいもあり、如実にその影響を受け、私を困らせるのは読書ができなくなるということである。友人からもらったレポートもじっくり読みたいし、あの小説も読みたいな、音響学の勉強もしたいな、とやることはたくさんあるのだけれど、いざ手にとってみると、様々な不安や焦りで目の前の文字が上手く読み取れない。引っ越しを遅らせているこの状況が何のためにもならないのはわかっているはずなのだ。あらゆる面において良くない。でも……。

2つの関係を上手く成立させることはできないと分かっているのに、もう決めたことなのに、いざ彼を目の前にすると言い出せずにいた。まだ片付けや掃除を終えていないから、その後で言えば良いのだけども、片付けすら手につかない。まだ決心ができていないのだろうか、いや、もうきちんと決まっているはず。

苦しくてネットの世界に助けを求めたくなることがある。でも、誰も助けてはくれない。違う。助けてくれそうな人はいるけれど、自分は助けてほしくないのだ。だから助けてくれるか分からない人とコンタクトを取る。たわいのない話をする。少し気が紛れる。またあまり話したことのない人と話をする。気が紛れる。繰り返し。あんまり意味がない。誤解を招くようなので、言っておくと、相手をしてくれた人のことは今後も大切にしたいし、相手にされたときすごく嬉しくなった。多分相手が思っている以上に私は感謝しているのだ。でも、根本の解決には至らない。そもそもそういう話を避けているし、仮に話したところでどうかなるわけでもない。そういう意味であまり意味のない行動をしている。

もう少しだけ時間が欲しい。そう願っている。もう少しだけ……どこかできちんと物事を正さなければならない。やる。やってみせる。でも、もう少しだけこの中途半端な時間を過ごしても良いですか、と貴方に懇願する。貴方の胸の内を知りながら。