Emu’s blog

よくある日記

私の頭の中を縦横無尽に走って延々とループする

―貴方の代わりなんていやしない

そんな歌が頭の中でぐるぐると駆け巡っている。関係性という名前のついた何かであれば代替可能であるとは言えるが、人が違うのだから全く同じような機能を果たすわけではないだろう。でも、何故だろう。頭の中を無断に行き来する言葉が気に食わない。私という意思はそれを望んではいない。つまり、音楽が煩わしい、言葉が鬱陶しい。その言葉の意味には同意するけれど、今それについて考えたいわけではない。音楽のこういうところが嫌いだった。勝手に私の頭の中を縦横無尽に走って延々とループする。

雨で濡れたスリッパを避けて、靴を履かずに靴下でコンクリートの上に乗る。雨風が強い中、洗濯物をかごに移し替えた。洗濯をするのは嫌いじゃない。まあ、洗濯をしているのは洗濯機なので、洗濯物をかごに入れて洗剤と柔軟剤を投下し、スイッチを押すだけなのだけど、この一連の流れを好ましいと思うのは何故だろうか。そして、洗濯物を干すと外が雨だろうが晴れやかな気持ちになる。実に不思議である。「靴下は履き口を上にして干すのが良い」と靴下屋という靴下を売っているオンラインショップの説明書で見かけて以来、靴下を干す時はいつもそのことを思い出す。得意げに足先を上にして干す主婦も多いのだろうなと思うと、ちょっぴり優越感を抱いてしまう。何故履き口を上にするのかというと、もし下にして水が溜まる状態が続いてしまうと、ゴムを傷めてしまうからだった。

コーヒーを飲みながらぼーっとしていると、ふと、今日特に印象的だった話を思い出す。話を聞きながら、俗世間ってそんなに嫌なものなんだろうか、もし俗世間に対して肯定的な文筆家がいるなら、それはそれで面白いことだよなあなんてちょっと外れたことを考えてしまっていた。私は社会と上手く関わっている自覚がないし、実際あまり強くは結びついていないのだと思う。自分は触れず、ほとんど傍観しているような感覚。この感覚は、時折自分の意識全体に纏わりつく。社会的な関わりどころか、人生そのものを何故か傍観しているようなそんな感じに陥ってしまうときがあるのだ。これにはさすがに参ってしまう。私は切実に為していたいのだ。ところがきっと「痛み」の少ない生活を送っているせいだろう。何かイレギュラーが起こってもなんとかなるだろうと思っているし、実際なんとかなってしまう。刃物で身体を切り刻みたい時というのはこの「痛み」を感じたい時であることがほとんどだ。鋭い「痛み」を発作的に欲することがある。かっこつきの痛みにしているのにはわけがあって、何も痛覚を刺激するものでなくても良いということだ。例えば、目の覚めるほど美味しいご飯を食べるだとか、激しい愛情を身体を通して感じるだとかそのようなことで良い。普段からそんな過剰な刺激を欲しているわけではない。人生を傍観している感覚に陥ってしまう時だけであって、日常では低刺激でも積み重なるとそれによって覚醒したり、しっかりと実感したりすることができる。できれば平和的でいたいので、感受性を鋭敏にして低刺激な生活を送っていたい。

そんなことを書き綴っていると、彼からLINEが来た。想定していた時間より随分と早い。彼がシャワーを浴びている隙に私は夕食を作って食べた。私がお風呂に入るのは後回しかな。彼中心に生活が動いている。幸福なことだ。それでも音楽を作る時間もあり、こうやって物を書く時間もある。幸福なことだ。明日はそんな時間もないかもしれないと思うと少し悲しいけれど、生活のバリエーションの豊富さもおそらく今しか味わえないのではないかと考えていて、だからこそ苦しまずに過ごせているのだと思う。まだまだ書き足りないけれど、今日はこの辺で。

変わりたいのだ

切ない気持ちがとろとろと快活さを溶かしてゆく。不安感のある状態が続く。「どうしよう」と困っていると、貴方がそっと私を救ってくれる。LINEが鳴った時、本当に「これは救いだ」と思った。ますます好きになる。

あの人の上手な部分を吸収したくて彼の作った音楽をひたすら聴き、その特徴を自分の曲に活かすという作業をしていた。でもやっぱり私らしさが滲んでしまい、結局似ているのは本当に外側の一部でしかない。そのことに喜んで良いのか不満がれば良いのかも分からずにいて、私はただずっと「どうすれば縁を切られずにこの人の音楽を享受できたか」というどうしようもないことを考えてしまうのだった。変わらなきゃいけない。

そういえば、読みにくい本を読んでいたせいか、ネットで転がっている大抵の文章には躓かなくなった気がする。以前は病気の影響もあって、読むのにかなりの抵抗感があったのだけれど、ツイッターをやっているのと、おそらく音楽美学の本を読んだせいか読めるものが増えてきた。ブログもたくさん読んでいるし、小説も前よりは触れられるようになっている気がする。昨日は音響学の本にも手をつけたし、なかなか良い傾向だ。

ブログを書きながら、彼が眠っているのを感じている。かれこれ5時間半くらい通話を繋げっぱなしにしている。なぜそんなことになったかというと、通話を切るのがお互い嫌だからだった。相手のスマホのバッテリーに影響が出そうなことを除けば気にかかることがない。むしろ、存在を近くに感じられるようでとても心地が良い。毎日こうだったら良いなあなんて思ってしまう。ただ、時折この人にとって私はファム・ファタール(男を破滅に導く悪女)になってはいないだろうかという心配をする。ツイッターのフォロワーから指摘があって以来気にしていることだった。できればプラスになる存在でいたいのだけど、一緒に居たいあまり相手のやりたいことを妨害しているのではないかと考えてしまう。それはないから、と説明を受けてもやっぱり気になるものは気になる。そもそも遠距離なのがいけないのだろう。近ければ多分そんなこと気にならない。多分。

物音がした。ああ、彼がご飯を食べに行く合図だ。通話が切れる。私もシャワーを浴びてこようかなという気持ちになる。今日はまだ時間があるから、音響学をもう少しだけ進めたい。昨日久々に手をつけて思ったのだけど、勉強はやっぱり楽しい。一生続けたい。私は人に教えるということが苦手で、できればずっと「先生」ではなく「生徒」でいたいと思っていた。だから、あの人にその態度が気に食わないと言われたし、あの人からは子ども扱いを受けた。学ぶ姿勢というのは、基本「先生」を仰ぎ見る形になる。勉強をするということは、ずっと何かを目指して這い上がっていくようなそんなものだ。音楽の学校を出たからと言って、突然教える側に回るという周りの動きに私はついていけなかった。だから、今後も誰かに音楽をきちんと教えることはない気がする。それをやるだけの知識は持っていないように思えるし、何より私は勉強をしたい側だから。勉強をするということは、何か知識を得るということだけに留まらず、目に見える世界を広げていくことでもあるし、世界を測る物差しの数を増やすことでもある。変身願望があると言っても良い。変わりたいのだ。もっともっとより良くしたい。勉強はそれ自体が面白いから成果が得られなくても構わないというのが自分の考えだけれど、やるとそれなりに成果は上がるもので、音楽を作るときに役に立ったり、人と話をする時のネタや喩えになったりする。それもまた自分の生活を豊かにしている感じがあるのでやっぱり続けていきたいなと思う。まあ順序でいうと、「役に立つとは思わずに純粋に楽しいと思ってやっていたら、いつの間にか役に立っていた」という感じなのだけど。

夜も更けた。明日が来る前に、また貴方と話がしたい。

澄んだ液体が全身を包みこんで私を浄化していくのだった

もこもこのパジャマを着ている幸福そうな私がいる。台風が来る前だからか気温がやや高めに感じる。つまりもこもこパジャマでいると暑い。それでもなお着ているのは、見た目が幸福そうになるからだった。見る人は同居人に限られているのだけれども。

今日も比較的穏やかな1日を過ごしていた。と、この一言で済ませてしまうと書くことがなくなってしまう。今日も気分良くいつもの時間に起床することができた。1日の始まり方で大体どんな1日になるか予想ができる。今日は良い1日になる。

話す時間は楽しい。いつも楽しいのだけど、体調が良いと一層楽しく感じられる。何を話したかはあまり覚えていない。相変わらず記憶力が悪い。でも、話している時はまるで淡い色の海を泳いでるかのように心地が良い。波に太陽の光が映ってキラキラしている。澄んだ液体が全身を包みこんで私を浄化していくのだった。

最近食べるものを気をつけるようにしている。ダイエットとまではいかない。ファストフードや揚げ物やお菓子を控えているだけ。休日の朝はコーヒーをマグカップに2杯飲んで腸の動きを活発にしている。それだけでも体重がじわじわ落ちてきた。この調子でとりあえず1ヶ月様子を見たい。できればこの頃買ったお洋服達を上手く着こなせればなと思うのだけど、それは高望みな感じがする。結局洋服はピンクのアンゴラニットとミント系のアンゴラニット、ホワイトニット、ベリー色のワンピース、グレージュのトップス、青のパンツを購入した。こうやって書き出してみるとここ数日の買い物の履歴がまずいことになっている気がするけれど、本当に洋服がないのでこのぐらいは必要だろう。

今日は久々に机に向かう勉強をした。楽器の物理学って名前で覚えていたのだけど、音響学だった。近いけど違う。今日の勉強はあまり実りがあったとは言えないけれど、ワクワクするページが先に待っているので続けていこうと思う。

そして音楽も少しいじった。元友人が作っていたようなノリの良い音楽を作りたくて自分なりに真似てみたのだけど、Bメロを考えるのがだるくてやめてしまった。聞き返してもあまりワクワクする内容ではないし、何度か書き直してみたものの、やっぱりワクワク感がないのでやむなくボツに。曲作りは難しい。圧倒的に技量のなさを感じる。少しずつ勉強して補っていくしかないのだろうけど、ないなりにも作れるはずなわけで。気力の問題が大きいよなあなどとぼんやり思った。

そしてあっという間に1日が終わる。今日も楽しく生きた。嬉しいことを言われたので、ほんの少しの自信に変えて明日を生きたいと願う。日記らしい日記が書けたので今日は短いけれどこの辺で。

願わくはこの1人の時間が永遠に続いてほしい

ひしひしと冬が感じとれる。今日はストーブをつけた。やっとの思いで衣替えをした。部屋を少し片付けた。めまぐるしい日常の中で、私は常に穏やかな時間を感じとっている。きっとこれが幸福なのだろうと思っていたり、思わなかったりする。衣替えをしたのだけど、洋服が全くなかった。去年の私は一体何を着ていたのだろう。本当に服がない。だから安価な洋服をネットで見ていたのだけど、やはり安価なだけあってすぐに着れなくなってしまうのだろうなということが素材の構成から感じ取れるし、好きな洋服はポワポワのアンゴラニットで、持ちの良さを考慮するなら論外の代物。その上8900いくらとこれまた微妙な金額。でも買ってしまいそうな自分がいる。いや待て、ここは質より数だ…質より数…と言い聞かせる。なぜ古着という選択肢が自分にないのか不思議だ。お店はすぐ近くにあった。身近な存在。古い人間らしい、私は古着を着ることに抵抗がある。新品を探すのがダルい。そういうわけで古着という選択肢はなくなってしまう。今度のデートで着ていける洋服がない。一体私は何を着ていくのだろうか。本当に困っている。困っているけど、古着は嫌だ。私はやっぱりわがままだ。

人の思いの吐露が好きだ。その断片を寄せ集めてどんな人なんだろうと想像する。中身が詰まっているような感じがする。今日ツイッターでフォローしてきた人がいたのだけれど、お店の料理の写真ばかりだったからブロックしてしまった。「中身がない」と思ってしまったからだった。中身の詰まった人が好きだ。考えていることは中身に違いない。私は考えていることを口にする人が好き。それ以外ならただひたすらに「行う」人も好き。この2つに当てはまらない人はほとんど興味がない。私の興味の範囲は狭い。ブログは私にとってまさに宝庫だった。いろいろな人のいろいろな考え方が見てとれる。それもツイッターよりもしっかりとした形となって。本当はコメントをつけたいのだけれど、はてなブログはてなダイアリーはどうもコメントしづらい空気があるように思う。もっと気楽にできたら良いのだけれど。

しとしと、いや、だらだらと続く雨に私は鬱屈とした気持ちを抱えていた。ここ数日は本当に気分が悪かった。でも、今日はあまりその気配がない。天気に影響されずにここまで気分良く過ごせるのはきっと1年の間でもそうないことだ。そういう日だったから片付けや衣替えが捗ったのだろうと思う。1人で過ごすことに寂しさを感じることなく過ごせる。快適。度々連絡を入れてくれる彼のおかげかもしれない。

時々人に対して粗雑(ぞんざい)な扱いをしていないだろうかと気にかかる時がある。今日はそんな日で、いろいろな関係に対して1人反省会をしていた。いつの間にか関係が切れたケースで「いや私は悪くない」という考え方になってしまうのがおかしく感じられた。そして、関係が切れる前に少しだけ戻りたくなった。今が霞んで見えるわけじゃないけれど、あの頃は良かったな、なんてベタなことを思ってしまう。

触れる指が僅かに温かかった。やや体温の低い彼でも温もりはあった。抱き合ったときの感触を思い出しながら私は話をしたり、食事をしたり、今こうやって考えたりしている。着る服がないと思ったのも、彼に会うことを頭の中で強く意識していたからだった。早く会いたい。J-POPの歌詞はいつも「会いたい」で、なんだこいつらいつも会えてないな、などとウンザリしながら聴いていたのだけど、J-POPのように会いたくなる時は私にもある。そう、会えない時が常になっている今は会いたくなって当然だった。会って、触れることしか考えていない。幼い子どものように、無邪気に求めていた。幼い愛し方で良い。

私の感情のじんわりとした温かさとは裏腹にEVANESCENCEの切なくひやりとした音楽が部屋に鳴り響いている。彼の手書きの文字がアップされているのを見る。詩だった。また文字が読めない。漢和辞典を常備していないといけないなと思う。それにしてもやはりバランスの取れた良い字を書く。私がもっていないものを彼がもっているということになぜか羨望よりも安心感を覚えるのだった。願わくはこの1人の時間が永遠に続いてほしい。そう思える1日だった。

雲の向こうが晴れていようと土砂降りは今現実だ

何ともいえない寂しさに襲われる日々が続いている。「何ともいえない」とつけなくても、寂しさは何ともいえないものであるが、理由が思いつかず、やってきた寒さのせいだと思ってしまうあたり、「何ともいえない」感じがする。実際寒さによって、去年の記憶が蘇ってきたり、数年前の状態を回想したりしていた。あの人と手を繋ぐ時に「白すぎ、病人みたい。それに冷たい」と言われたこと。その時じんわりと温かな手が私の手を包んだ感覚。具合が悪くて過眠状態だった私にいつも「元気?」と訊いてきたこと。実家のPCの前で冬に向けてマフラーを編む私。キラキラと楽しそうに働く私。時系列はバラバラだけど、私というモノによってそれらは1本に繋がる。私はいつだって幸福だった。その幸福が今1人でいるこの状態を虚しく思わせる。今のこの状態だって幸せなのだけれど、たった今のこの瞬間は1人だからかなぜか辛いのだ。誰かと繋がっている時間は本当に幸せだけど、常に繋がっていたいわけじゃない。でも、たった今は誰かと寄り添っていたいようなそんな感覚がする。私はわがままだ。

天気が悪いと調子が悪くなる。だから、今不安感や虚無感を抱いていることは、よくあることだし納得する。けれど、落ち着かない今の状態をどうやってやり過ごせば良いか分からずにいる。そのうちまた大丈夫な自分になれる。でも、問題は「雲の向こうが晴れていようと土砂降りは今現実だ」。つまり、何もしなくても状態が良くなることは解りきっているが、今の辛い状態をどうすれば良いかが問題である。

何度も言いすぎてくどくなってきたのであまり言いたくはないのだけれど、私は今の人と残り少ない時間を共に過ごしている。もうすぐ別れるつもりでいるからだ。未だ冷めぬ彼を想う気持ちを、料理や、家事ひとつひとつに込めていた。そして、昨日「前に作ってくれたマフラーがもう毛玉だらけで使えなくなってしまったから、新しいものがほしい」と言われたので、「作ろうか?」と答えてしまった。眠っているであろう別の彼に悪いなという気持ちもあり、あまり力を入れて何か作ることはもうしたくはないと思っていたのだけれど、最後だから許してねと心の中で言う。

まだ今の彼のことが好きなら、もう一人の彼を諦めるべきでは?と読んでいる人は思うかもしれない。そういう風に見える書き方をしている自覚がある。けれど、私の心の中ではもう迷っている気持ちはなくて、環境さえ整っていれば今すぐにでも別れを切り出す腹づもりでいるぐらい、もう心に決めていることなのだ。それに、今の人より彼と過ごす時間の方が圧倒的に長くなっている。私の気持ちはもう変わらない。

好きで好きでたまらない。理性でいくら難題が多いと分かっていても止められない。恋とはそういうものでしょう。もう勢いに任せて恋をする歳でもないけれど、だからなんだと言いたい。まっすぐ見つめられる人、その人のことだけを想っていたいという感情、そんな稀有な感情の持てる人と一緒になりたい。今の人と付き合っていても、私はすぐによそ見をしてしまう。それはもしかしたら今の人だからかもしれないし、私がそういう性質なのかもしれない。どっちなのかは分からないけれど、そんな私でも好きになった彼に対してまっすぐな気持ちが持てること、その彼の嫌がることはなるべくしたくないと思えることはすごく大事なことである気がしている。今の人にはその気持ちがずっと持てずに苦しい思いをしたから…。

今日はあまり書きたくないことをあえて書いてみたけれど、これは人に見せるものではないなという気が大いにするし、多分読んでも面白くはないだろうから、あまり読まれずに流されることを願う。

書き方を誤ると印象が大きく変わってしまうことに私はもっと注意を向けなければならなくて、もし抱かれる印象が自分の望んでいるものと違っていてもそれを甘んじて受け入れる覚悟もできてなければならなくて、そんな中で、自分の微妙な感情のニュアンスを書く、伝えようとするということは危険な行為であるなと最近良く思うのだけれど、私の書きたい気持ちはその危機感より勝ってしまうようで、良くないなと思う。でもきっとそういう性質でなければ、自分は表現の世界に足を踏み入れることはなかっただろうし、諦めて「正しく」表現できるように努める他ないのかもしれない。

手足が冷える。足先が特に冷える。苦しみが私に纏わりついてくる。冷えが私の心をも冷やす。あなたの温もりを求めている。寒さのせいで誰でも良いような気がしてしてくるのを振り切って、あなたを求めている。それは本当に私にとっては稀なことなんだと強調したい。

大きなけやきの木を眺めながら

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秋桜。秋の桜と書くけれど、桜のような風情があるかというと首を傾げる。確かに茎が細くてやや儚げではある気がするけど、群生するものだから何かと力強い印象を受ける。秋桜は、小学四年生の時に国語の教科書で読んだ『一つの花』によってまず印象づけられた。戦時中に、「ひとつだけ、ひとつだけ」が口癖の赤ん坊に、一輪の秋桜父親が手渡すシーンが印象的な物語。ひとつの命がかけがえのないものであるということを読み解くお話。私は模範解答通りの考えを述べていた記憶がある。先生に大変褒められた。しかし、戦争の陰惨さが描かれていたかもしれない話だけれど、その記憶はすっかり抜け落ちて、ただ秋桜が綺麗だったという部分しか覚えていない。私はそういう意味では出来の悪い生徒かもしれない。今も昔も平和ボケしているのだ。『ちいちゃんのかげおくり』だってそうだ。「かげおくり」の不思議な印象や絵の美しさだけが焼き付いていて、時代背景やストーリーはあまり記憶になかった。惨い話や印象は美しいものの記憶によって塗り替えられているのかもしれない。

なぜ秋桜の話を突然始めたかというと、昨日秋桜を見に行ったからであった。天気も良く、様々な色の秋桜を見ることができて大変満足な一日だった。とたった二、三行で昨日の話を終えてしまっては興ざめな感じがするので、その時の話を少しする。

私は大きなけやきの木を眺めながら、一人で周りをキョロキョロ見渡していた。これが彼と来る最後の「遠足」かもしれないのに、彼は呑気に仰向けになって眠っていた。

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人がキャッチボールをして遊んでいる。バドミントンのようなものをしている人もいる。シートを広げて彼と同じように寝転がっている人もいた。そんな中、ピンヒールを履き、レースのタイトスカートを穿いた女性が威勢良く助走をつけてボールを蹴っていた。時折ガクッと足首が曲がってしまうため、転ぶのではないかとひやひやしながらその様子を見守る。そんな私の心配をよそに、その女性は溌剌とした様子でボールを蹴っていた。どう考えても選択ミスであるその服装によって広場で一際目立っているように見えた。なぜか良いなと思う。

朝早くから来たかったのに、月に一度の通院日だったため、病院に行ってから公園に来たせいで、もうお昼だった。いつもなら受付を済ませて少し座っているとすぐに名前を呼ばれて秒で診察を終えられるのに、なぜかこの日だけは10分以上待ったし、その後に向かった薬局もやや混んでいたため、待たされた。ついていないなと思いはしたが、そんなにイライラするわけでもなかった。気分は悪くない。日差しが強く、少し動くと汗ばむ。10月とは思えない暑さだ。

ようやく起きた彼と秋桜を撮っていた。私はあまりこだわりなく撮る。一体何を撮っているのか、私はそこにある空気感を撮っていた。対象を見るのは写真を撮るときではなかった。写真も撮らずにぼんやりと眺めている時。だから、写真は構図も何もないような、本当に子どもがテキトウに撮ったようなものばかりでふざけていた。一方、彼は写真を撮る時もきちんと対象を見つめていた。構図もやや考えているように思われた。実際、ここに載せる写真はおそらくほとんど彼が撮影したものだろう。私の写真は彼の撮ったものと比較してしまうと見劣りするのだった。

移動して、さらに秋桜を撮る。いろいろな話をしていたけれど、覚えていない。隣のサイクリングロードを自転車が走る。二人乗り用の自転車だ。「いいな」と思ったけれど…うん、もう言わない。

入園した直後に食べたソフトクリームがあまりに小さい上に美味しくなくて、買ったことを未だに後悔していた。ソフトクリームを食べている人を見る度に「あんなソフトクリームで満足できるのか」なんてことを思ってしまう。コーンだけは美味しかった。でも、北海道や阿蘇で食べたソフトクリームには敵うわけがなかった。なんでこんなにソフトクリームに固執しているのかも自分では良く分からなかったのだけど、出くわす人が手に持っていると、どうしても考えてしまうのだった。

自動販売機で彼と一緒に買ったドトールのカフェオレはなんとなく美味しかった。暑さにやられて水分を欲している体に冷えたカフェオレを与えたからだろうし、皆がゆったりと過ごしているこの空間の居心地の良さが味をさらに良くしていた。普段飲めばなんてことないただのコーヒー牛乳だけど、それがこんなに美味しく感じられる時もあるのだなと思う。

日がもう傾いていた。徐々に涼しくなってくる。広い公園だったので1時間前から出口を目指して歩いていたのだけど、まだ到着しなかった。途中、コスプレイヤーが写真撮影しているのを珍しそうに観察したり、退屈そうに店番をする店主を少し嫌に思いながら手作りと書かれたガラス細工のいろいろを眺めたりした。季節外れの風鈴の音が心地良かった。

1時間半かかる帰りの電車でもやっぱり彼は眠っていた。やはり普段激務で疲れているんだろう。私はスマホでネットをぐるぐると巡回する。はてなブログでいろいろな人のブログを見るのにハマっていた。面白そうな人を見つけると、夢中になってしまい、時間やその空間にいることを忘れてしまった。

帰宅するとすぐさま私は家事を始める。彼にもあれこれと指示するも、彼は休みたいと駄々をこねる。結局畳んだ洗濯物を片付けてはくれなかったし、散らかしたテーブルもそのままにされた。だらしない。本当にその面だけは嫌だった。うちの家族は皆がきびきびと動くものだから、私はのろのろとしているように映っていたのだけど、彼と私で比較すると、彼は私以上にのろまだった。疲れているのは分かるけど、私も疲れているし、私より働いているからといって家事を全くせずに押し付けてくるのは本当にどうかと思う。そこは彼が私に対して甘えている部分でもあった。愚痴を書き始めると止まらないのでこの辺にしておくけれども。

ご飯を食べて、映画を一緒に観たけれど、私はやっぱり映画に集中できなくてズレてしまっていた。

そして夜見た夢で、私は全てを投げ出したいと考えていたみたいだった。もう、昔のような温かな家庭は実家に帰ってもないし(家族が揃わないから)、ここにもない。新たにつくるしかないのだけれど、まだまだ叶いそうにないことに夢では絶望しているようだった。夢ではひとりだった。ひとりだったけれど、目覚めるとひとりではなくて、ちゃんと見てくれる人がいるから、私はまだ発狂することなくこの日常をやり過ごせているんだろうなと感じた。あなたのおかげで。

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穏やかな1日を過ごしている

穏やかな1日を過ごしている。アイスハーブティーを淹れて、飲みながらまったりと日記を書いている。

今日は早い時間に目が覚めた。6時半。二度寝をしても7時半。最近健康的な時間に起きている。多分彼のおかげだろう。

シャワーを浴びる。朝シャワーを浴びるのは気持ちが良い。気持ちが良いのだけれど、髪の毛を乾かすのに30分かかってしまうため、外へ出るまでが大変になってしまう。そういう意味では朝シャワーを浴びるのが億劫でたまらなかった。でも、今日はわりとすんなりと事が運んだ。良い日になりそうだとこの時思った。

髪も乾かさずに話をする。1日の中で最も楽しい時間。何を話したかはあまり記憶に残らないのだけど、確実に私に刻まれてゆく。それが心地良くてたまらない。

話を終える。出かける準備をする。今流行りのYouTuberの動画を見ながら髪の毛を乾かす。やっぱり30分近くかかってしまう。もういっそ全く違う髪型にしたいなとも思う。短くしたら、もっと手軽にオシャレな感じを纏えるかもしれないし、何より乾かすのが早くなるのが良い。オシャレというのは手間がかかるものだ。それを手軽にしたいなんておかしい話だなと矛盾にすぐに気づいて滑稽に思う。

着替えてメイクをする。苦手なベースメイクをなんとか乗り越えて簡単にポイントメイクを済ませる。今日はあまり顔を見たくない日だ。

予め作成しておいた買い物リストと共に、買い物用のバッグを下げて外に出る。風が心地良い。今日は日差しがやや痛い。動くと暑そう。パン屋に向かっていた。歩いている時になぜか、自分がもし何かのミスをして服を身につけていなかったら、出くわす人はどんな反応をするのだろうか、何かすごく変な反応をするのか、それとも無視されるのか、なんてことを考えてしまう。私、今日服を着てきたよね?メイクもちゃんとしたし、おかしくないよね?いつもそんなことを思いながら周りの様子を窺っているのだけど、今日は特にひどかった。あまり調子が良くないのだろうか。

人気のパン屋は祝日とあって混み合っていた。人がひしめき合う中で、物色する。コロッケパンフェア…なのだろうか。コッペパンにコロッケやチキン南蛮などの具材が挟まれたものが数種類あり、店の中央に並べられていた。私はそのイベントを無視して食べたい物を選んだ。ここに来るといつも買いすぎてしまう。今日はクロワッサン、塩パン、ベーコンエッグパン、きのこパン、くるみパン、食パン。レジに並ぶ。すぐに自分の番が来る。この間ゲットしたVIPカードを得意げに出すべきなのか、申し訳なさそうに出すべきなのか、そんなどうでも良いことに迷いながら恐る恐る出す。店員はこちらの心配をよそに淡々とレジを打つ。割引されて私はほっとした。

店を出ると外はやはり気持ちが良かった。この室内から外へ出たときの開放感だけを味わっていたいので、何度も出入りしたい気持ちになる。そしてスーパーへ向かう。八百屋がスーパーの手前にある。買おうかな、という気持ちもあったのだけど、八百屋さんだけでは買いたいものが揃わないのと、店員さんの威勢の良すぎる声に驚いてしまうのが今の体調にはそぐわない気がしたので遠慮しておいた。

スーパーに到着する。買うものは決まっていたのであまりキョロキョロせずに歩く。…こんなに椎茸って必要なんだろうか、こんなに里芋を買って使いきれるのだろうか、などという不安を抱えながら買い物リスト通りにかごに入れていく。その他にも必要なものを少し。牛肉を買うのは久しぶりだった。いや、ステーキ肉ならつい最近も買ったのだけど、料理に使う切り落とし肉は半年ぶりくらいじゃないだろうかというぐらい久々。パン屋とは違って、スーパーのレジではあまりドキドキすることなく買えたのでほっとした。パンコーナーに飾ってあったキャンペーン用のミッフィーの手提げ袋が少し気になったけれど、スーパーではパンを買わなかった。でも、ちょっと欲しい気もするから後日買うかもしれない。

買い物を終えて、買ってきたものを冷蔵庫にしまい、パンをいただいた。ちょっとのんびりしてからたまりにたまった洗濯物を畳む。すべて畳み終えるとなんともいえない満足感が充満していた。でも、今日はさらに動く。

料理の下ごしらえをする。不慣れなサイトのレシピを見ながらだったので、少々手間取ったがなんとかなった。たまには自分の作りたいものでなく、献立サイトを参考にして作るというのもなかなか良い。レパートリーも増えるし新鮮な気持ちになる。

料理は買い物から楽しい。下ごしらえも楽しい。外食にしてしまうというのは一気にその部分を飛ばしてしまうことになる。お金を出して時間を買っているのと似ているが、なくすものもあるのだ、と思う。そんなことを買い物の途中で考えていた。ツイートに載せる。私は生活を楽しんでいる自信があった。だから、今も、そしてこれからも幸福に違いないのだ。揺るぎない幸福などあるわけがない、と誰かが言うかもしれないし実際そうかもしれないけれど、今の私には響かない。私は無敵なのだ。若干躁っぽい考え方をしている自覚はある。またメンタルが揺らいだらこの気持ちでさえ揺らぐのでしょう。でもあなたを好きであることまでは揺れたくないな、とやや思う。

料理は過程も結果も楽しめるから良い。生活におけるすべてがそうであることが望ましい。きっとそれはさすがに難しいのだろうけれど。

下ごしらえを終えて、アイスハーブティーを淹れた。てきとうに作ったけれど、案外良い濃度だ。

音楽を少しだけした。変えようとすると、良い作品はその完成度の高さを見せつけてくる。私が少しも入れる隙がないような気がしてしまう。大きく変えるしか方法はないのかもしれないなと思う。そう思って、耳コピを続けていると、ピコっとLINEが光る。この時間に彼が目覚めるのはおかしい。心配しながら、それでも嬉しい気持ちが隠せない。話を少しする。

そして今に至る。何もしていないといえばしていない。だから日記にすることもできないと思っていた。でもやったことや思ったことを淡々と書くだけで「日々」が形成されていた。そう、習慣とは自分だ。そして、時間とはすなわち生活だ。私は何度もそのことを心の中で呟きながら生きている。

これからのことを少し書く。夕食を作る。彼とご飯を食べる。お風呂に入る。寝る。なんてことない、ただの日常だ。でも、そこで起こることすべてが私の喜びとなり、血となり肉となる気がする。