Emu’s blog

よくある日記

大きなけやきの木を眺めながら

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秋桜。秋の桜と書くけれど、桜のような風情があるかというと首を傾げる。確かに茎が細くてやや儚げではある気がするけど、群生するものだから何かと力強い印象を受ける。秋桜は、小学四年生の時に国語の教科書で読んだ『一つの花』によってまず印象づけられた。戦時中に、「ひとつだけ、ひとつだけ」が口癖の赤ん坊に、一輪の秋桜父親が手渡すシーンが印象的な物語。ひとつの命がかけがえのないものであるということを読み解くお話。私は模範解答通りの考えを述べていた記憶がある。先生に大変褒められた。しかし、戦争の陰惨さが描かれていたかもしれない話だけれど、その記憶はすっかり抜け落ちて、ただ秋桜が綺麗だったという部分しか覚えていない。私はそういう意味では出来の悪い生徒かもしれない。今も昔も平和ボケしているのだ。『ちいちゃんのかげおくり』だってそうだ。「かげおくり」の不思議な印象や絵の美しさだけが焼き付いていて、時代背景やストーリーはあまり記憶になかった。惨い話や印象は美しいものの記憶によって塗り替えられているのかもしれない。

なぜ秋桜の話を突然始めたかというと、昨日秋桜を見に行ったからであった。天気も良く、様々な色の秋桜を見ることができて大変満足な一日だった。とたった二、三行で昨日の話を終えてしまっては興ざめな感じがするので、その時の話を少しする。

私は大きなけやきの木を眺めながら、一人で周りをキョロキョロ見渡していた。これが彼と来る最後の「遠足」かもしれないのに、彼は呑気に仰向けになって眠っていた。

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人がキャッチボールをして遊んでいる。バドミントンのようなものをしている人もいる。シートを広げて彼と同じように寝転がっている人もいた。そんな中、ピンヒールを履き、レースのタイトスカートを穿いた女性が威勢良く助走をつけてボールを蹴っていた。時折ガクッと足首が曲がってしまうため、転ぶのではないかとひやひやしながらその様子を見守る。そんな私の心配をよそに、その女性は溌剌とした様子でボールを蹴っていた。どう考えても選択ミスであるその服装によって広場で一際目立っているように見えた。なぜか良いなと思う。

朝早くから来たかったのに、月に一度の通院日だったため、病院に行ってから公園に来たせいで、もうお昼だった。いつもなら受付を済ませて少し座っているとすぐに名前を呼ばれて秒で診察を終えられるのに、なぜかこの日だけは10分以上待ったし、その後に向かった薬局もやや混んでいたため、待たされた。ついていないなと思いはしたが、そんなにイライラするわけでもなかった。気分は悪くない。日差しが強く、少し動くと汗ばむ。10月とは思えない暑さだ。

ようやく起きた彼と秋桜を撮っていた。私はあまりこだわりなく撮る。一体何を撮っているのか、私はそこにある空気感を撮っていた。対象を見るのは写真を撮るときではなかった。写真も撮らずにぼんやりと眺めている時。だから、写真は構図も何もないような、本当に子どもがテキトウに撮ったようなものばかりでふざけていた。一方、彼は写真を撮る時もきちんと対象を見つめていた。構図もやや考えているように思われた。実際、ここに載せる写真はおそらくほとんど彼が撮影したものだろう。私の写真は彼の撮ったものと比較してしまうと見劣りするのだった。

移動して、さらに秋桜を撮る。いろいろな話をしていたけれど、覚えていない。隣のサイクリングロードを自転車が走る。二人乗り用の自転車だ。「いいな」と思ったけれど…うん、もう言わない。

入園した直後に食べたソフトクリームがあまりに小さい上に美味しくなくて、買ったことを未だに後悔していた。ソフトクリームを食べている人を見る度に「あんなソフトクリームで満足できるのか」なんてことを思ってしまう。コーンだけは美味しかった。でも、北海道や阿蘇で食べたソフトクリームには敵うわけがなかった。なんでこんなにソフトクリームに固執しているのかも自分では良く分からなかったのだけど、出くわす人が手に持っていると、どうしても考えてしまうのだった。

自動販売機で彼と一緒に買ったドトールのカフェオレはなんとなく美味しかった。暑さにやられて水分を欲している体に冷えたカフェオレを与えたからだろうし、皆がゆったりと過ごしているこの空間の居心地の良さが味をさらに良くしていた。普段飲めばなんてことないただのコーヒー牛乳だけど、それがこんなに美味しく感じられる時もあるのだなと思う。

日がもう傾いていた。徐々に涼しくなってくる。広い公園だったので1時間前から出口を目指して歩いていたのだけど、まだ到着しなかった。途中、コスプレイヤーが写真撮影しているのを珍しそうに観察したり、退屈そうに店番をする店主を少し嫌に思いながら手作りと書かれたガラス細工のいろいろを眺めたりした。季節外れの風鈴の音が心地良かった。

1時間半かかる帰りの電車でもやっぱり彼は眠っていた。やはり普段激務で疲れているんだろう。私はスマホでネットをぐるぐると巡回する。はてなブログでいろいろな人のブログを見るのにハマっていた。面白そうな人を見つけると、夢中になってしまい、時間やその空間にいることを忘れてしまった。

帰宅するとすぐさま私は家事を始める。彼にもあれこれと指示するも、彼は休みたいと駄々をこねる。結局畳んだ洗濯物を片付けてはくれなかったし、散らかしたテーブルもそのままにされた。だらしない。本当にその面だけは嫌だった。うちの家族は皆がきびきびと動くものだから、私はのろのろとしているように映っていたのだけど、彼と私で比較すると、彼は私以上にのろまだった。疲れているのは分かるけど、私も疲れているし、私より働いているからといって家事を全くせずに押し付けてくるのは本当にどうかと思う。そこは彼が私に対して甘えている部分でもあった。愚痴を書き始めると止まらないのでこの辺にしておくけれども。

ご飯を食べて、映画を一緒に観たけれど、私はやっぱり映画に集中できなくてズレてしまっていた。

そして夜見た夢で、私は全てを投げ出したいと考えていたみたいだった。もう、昔のような温かな家庭は実家に帰ってもないし(家族が揃わないから)、ここにもない。新たにつくるしかないのだけれど、まだまだ叶いそうにないことに夢では絶望しているようだった。夢ではひとりだった。ひとりだったけれど、目覚めるとひとりではなくて、ちゃんと見てくれる人がいるから、私はまだ発狂することなくこの日常をやり過ごせているんだろうなと感じた。あなたのおかげで。

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穏やかな1日を過ごしている

穏やかな1日を過ごしている。アイスハーブティーを淹れて、飲みながらまったりと日記を書いている。

今日は早い時間に目が覚めた。6時半。二度寝をしても7時半。最近健康的な時間に起きている。多分彼のおかげだろう。

シャワーを浴びる。朝シャワーを浴びるのは気持ちが良い。気持ちが良いのだけれど、髪の毛を乾かすのに30分かかってしまうため、外へ出るまでが大変になってしまう。そういう意味では朝シャワーを浴びるのが億劫でたまらなかった。でも、今日はわりとすんなりと事が運んだ。良い日になりそうだとこの時思った。

髪も乾かさずに話をする。1日の中で最も楽しい時間。何を話したかはあまり記憶に残らないのだけど、確実に私に刻まれてゆく。それが心地良くてたまらない。

話を終える。出かける準備をする。今流行りのYouTuberの動画を見ながら髪の毛を乾かす。やっぱり30分近くかかってしまう。もういっそ全く違う髪型にしたいなとも思う。短くしたら、もっと手軽にオシャレな感じを纏えるかもしれないし、何より乾かすのが早くなるのが良い。オシャレというのは手間がかかるものだ。それを手軽にしたいなんておかしい話だなと矛盾にすぐに気づいて滑稽に思う。

着替えてメイクをする。苦手なベースメイクをなんとか乗り越えて簡単にポイントメイクを済ませる。今日はあまり顔を見たくない日だ。

予め作成しておいた買い物リストと共に、買い物用のバッグを下げて外に出る。風が心地良い。今日は日差しがやや痛い。動くと暑そう。パン屋に向かっていた。歩いている時になぜか、自分がもし何かのミスをして服を身につけていなかったら、出くわす人はどんな反応をするのだろうか、何かすごく変な反応をするのか、それとも無視されるのか、なんてことを考えてしまう。私、今日服を着てきたよね?メイクもちゃんとしたし、おかしくないよね?いつもそんなことを思いながら周りの様子を窺っているのだけど、今日は特にひどかった。あまり調子が良くないのだろうか。

人気のパン屋は祝日とあって混み合っていた。人がひしめき合う中で、物色する。コロッケパンフェア…なのだろうか。コッペパンにコロッケやチキン南蛮などの具材が挟まれたものが数種類あり、店の中央に並べられていた。私はそのイベントを無視して食べたい物を選んだ。ここに来るといつも買いすぎてしまう。今日はクロワッサン、塩パン、ベーコンエッグパン、きのこパン、くるみパン、食パン。レジに並ぶ。すぐに自分の番が来る。この間ゲットしたVIPカードを得意げに出すべきなのか、申し訳なさそうに出すべきなのか、そんなどうでも良いことに迷いながら恐る恐る出す。店員はこちらの心配をよそに淡々とレジを打つ。割引されて私はほっとした。

店を出ると外はやはり気持ちが良かった。この室内から外へ出たときの開放感だけを味わっていたいので、何度も出入りしたい気持ちになる。そしてスーパーへ向かう。八百屋がスーパーの手前にある。買おうかな、という気持ちもあったのだけど、八百屋さんだけでは買いたいものが揃わないのと、店員さんの威勢の良すぎる声に驚いてしまうのが今の体調にはそぐわない気がしたので遠慮しておいた。

スーパーに到着する。買うものは決まっていたのであまりキョロキョロせずに歩く。…こんなに椎茸って必要なんだろうか、こんなに里芋を買って使いきれるのだろうか、などという不安を抱えながら買い物リスト通りにかごに入れていく。その他にも必要なものを少し。牛肉を買うのは久しぶりだった。いや、ステーキ肉ならつい最近も買ったのだけど、料理に使う切り落とし肉は半年ぶりくらいじゃないだろうかというぐらい久々。パン屋とは違って、スーパーのレジではあまりドキドキすることなく買えたのでほっとした。パンコーナーに飾ってあったキャンペーン用のミッフィーの手提げ袋が少し気になったけれど、スーパーではパンを買わなかった。でも、ちょっと欲しい気もするから後日買うかもしれない。

買い物を終えて、買ってきたものを冷蔵庫にしまい、パンをいただいた。ちょっとのんびりしてからたまりにたまった洗濯物を畳む。すべて畳み終えるとなんともいえない満足感が充満していた。でも、今日はさらに動く。

料理の下ごしらえをする。不慣れなサイトのレシピを見ながらだったので、少々手間取ったがなんとかなった。たまには自分の作りたいものでなく、献立サイトを参考にして作るというのもなかなか良い。レパートリーも増えるし新鮮な気持ちになる。

料理は買い物から楽しい。下ごしらえも楽しい。外食にしてしまうというのは一気にその部分を飛ばしてしまうことになる。お金を出して時間を買っているのと似ているが、なくすものもあるのだ、と思う。そんなことを買い物の途中で考えていた。ツイートに載せる。私は生活を楽しんでいる自信があった。だから、今も、そしてこれからも幸福に違いないのだ。揺るぎない幸福などあるわけがない、と誰かが言うかもしれないし実際そうかもしれないけれど、今の私には響かない。私は無敵なのだ。若干躁っぽい考え方をしている自覚はある。またメンタルが揺らいだらこの気持ちでさえ揺らぐのでしょう。でもあなたを好きであることまでは揺れたくないな、とやや思う。

料理は過程も結果も楽しめるから良い。生活におけるすべてがそうであることが望ましい。きっとそれはさすがに難しいのだろうけれど。

下ごしらえを終えて、アイスハーブティーを淹れた。てきとうに作ったけれど、案外良い濃度だ。

音楽を少しだけした。変えようとすると、良い作品はその完成度の高さを見せつけてくる。私が少しも入れる隙がないような気がしてしまう。大きく変えるしか方法はないのかもしれないなと思う。そう思って、耳コピを続けていると、ピコっとLINEが光る。この時間に彼が目覚めるのはおかしい。心配しながら、それでも嬉しい気持ちが隠せない。話を少しする。

そして今に至る。何もしていないといえばしていない。だから日記にすることもできないと思っていた。でもやったことや思ったことを淡々と書くだけで「日々」が形成されていた。そう、習慣とは自分だ。そして、時間とはすなわち生活だ。私は何度もそのことを心の中で呟きながら生きている。

これからのことを少し書く。夕食を作る。彼とご飯を食べる。お風呂に入る。寝る。なんてことない、ただの日常だ。でも、そこで起こることすべてが私の喜びとなり、血となり肉となる気がする。

あなたのいない時間が憂鬱で仕方がない

ネットを見ていた。弛れた時間を過ごしている。見ていたのは、アップローダーというサイトだった。誰でも手軽に画像や音楽、動画ファイルをネットにアップロードすることができるというサイト。アップロードすると、URLが手に入るので、それを人に知らせるのだ。そうやって誰でも自分のあげたものを見せることができる。だから、鍵付きでなければ他人があげた音楽や写真を誰でも覗くことができた。それらをてきとうに開いて眺めている。するとここで妙な空想をする。

男がサイトを見ていた。いつもの暇つぶしに、てきとうに全くの見知らぬ人の写真や音楽、動画を鑑賞している。たまに大量のゴキブリが這う映像のようにぎょっとするものもあったが、大抵はペットの写真や、料理の写真などほっこりするようなものが多かった。気にいるとなんともなしにダウンロードする。その中で気にかかるものがいくつかあった。自分の家を周辺の場所を含めて撮影したものや、これから飲みますという貼り紙と一緒に写った大量の薬の写真。そして、毎日決まった時間にアップされる料理の写真。なぜ毎日同じ人が同じ時間にあげているのが分かるかというと、テーブルクロスの柄が毎回同じものであったからだ。色は違っていることもあるのだけど、柄が同じだったのですぐに同じ人だということが分かった。いつもアップしているのを他の「常連」も把握しているようだった。その人の写真だけ、ダウンロード数が妙に多くなるからだ。このサイトにはコメント機能というものがないので、人との交流はできない。けれども、自分のように暇つぶしに利用している人が多いらしく、面白い動画や魅力的な音楽は特にダウンロード数が伸びていた。夕食の写真の主はきっと女であろう、と男は予想する。テーブルクロスの柄と食器、盛り付け方が可愛らしい。料理の彩りも考えられているし、テーブルクロスの色が毎回違うのでまめな人であることが分かる。でも、どうしてまたアップローダーというサイトにわざわざアップするのだろうか。恋人や夫に見せるためならラインやスカイプツイッターフェイスブックなどいろいろあるだろうに。

とここで、空想が途切れる。この主人公と写真を撮る女をどうにかうまいこと結び付けられないかと考えたが、アップローダーというサイトを利用するシーンというものが特殊すぎて、この調子では出会わすことがかなり無理くりな感じがする。でも、このアップローダーというサイトを通じて他者とコミュニケーションを図ろうとする試み自体は面白いのでメモ代わりに載せておきたい。

今日は弛れた1日という感じがする。気分まで弛れてきたのでアイスコーヒーを飲んで切り替える。陰鬱な空を想起するような話を読む。最初の場面では明るくて陽も差していたような気がする。文章としてそういうものがあったかどうかはもう記憶にないが。ところが、場面を追っていくと次第に雲が出てきて、陰鬱になってしまった。なんともいえない気持ちで文章を読み終える。

あなたのいない時間が憂鬱で仕方がないような、そんな気がしてしまう日だ。普段はいない時間も楽しめているし、前向きに捉えていることが多いのだけれど、今日はなんだか気持ちが荒んでいる。早くして寝た方が良いのだろうなという感じがする。

朝憂鬱な自分の替え歌を読んだせいだろうか。それともPMSのせいかな。おそらくはPMSだろう。豆乳を飲んで落ち着きたい。

昔の詩を読み返すと意味不明な部分もあるけれど、言葉というのは素直な自分の心を映しているところがあって、今読めば「やはりな」と思うことがある。詳細に何とは言わないけれども。やっぱり「彼」といるとき私は独りだったんだろうなと思う。

今音楽に乗せてなら何か新しく言葉が出てくるかもしれないという気分になった。こうなると居ても立ってもいられない。というわけで足早に日記を閉じることにする。

 

「おはよう」

 

ひとりぼっちだよ

君が現れてからも

凍える心ふたつ

温め合えているの?

 

「孤独」を癒やす僕らの

孤独とはその程度か

幸せ 感じられても

満たされない

 

君からのおはようと

僕からのおはようが

連なる電子空間

これからも続いていけば良いけど不安になる

永遠はない

 

変化に怯えて

傷つきたくなかったよ

今は受け入れている

受動的だけどね

 

求める都合の良さや

変化を侮っている

僕らの狭い夢は

そっとそっと醒めて壊れて消えた

 

「愛するとは何か」考えている君と

考えない僕の溝は埋まらない

 

「おはよう」

小鳥の囀りと共に今日が始まって

君からの「おはよう」がいつもの様に来たら

灰になる言葉と再び生まれる言葉見て

笑顔になる

今日におはよう

ため息が出るほど甘美な時間を過ごしている

「お箸を一膳ください」

「あっ」と心の中で声を上げる。「一膳」なんて言葉ついこの間まで気恥ずかしくて使えないと思っていたのだった。前までは「ひとつ」という言い方をしていた。親に箸を取ってほしいと頼まれた時、確か「ひとつ」と言われた気がする。でも、「ひとつ」じゃまるで子どもだ。あるいは言葉にせず、指でひとつ、ふたつと示していた。「一膳」という言葉があまりに自分の生活に馴染んでいなかったので、コンビニで初めて耳にしたとき妙に映ったものだった。そうか、箸はそういう単位なのか。いちぜん。いちぜん。いちぜん…。

新しい言葉に触れてから自分の中でしっくりくるようになるまでにかかる時間は言葉による。「淘汰」はわりと馴染んできたけれど、未だに「邂逅」は馴染んでいない。「一膳」はそんなに難しい言葉ではないのに時間がかかった。だから、今日のようにナチュラルに使えたことに内心驚き、喜んだ。今日は「一膳」がなんのひっかかりもなくいえた記念日だ。

そんなことを思いながら買い物を終えて家に帰ってきた。買ってきた食材を冷蔵庫に詰め込む。小松菜を見つける。何のために買ったのか分からない。たまたま安かったというだけだった。LINEがピコピコ鳴り、光っている。嬉しい。

なんとなくチーズケーキを作りたくなったのでそのために買い物に行った。チーズケーキはお菓子作りの中で最も簡単に美味しく作れると思っている。しかし、どんなに頑張っても家で作るチーズケーキは同じ味がする。おそらく材料の選択肢があまりないのと、美味しく作ろうと思ったらもっとたくさんの工程を踏んで、良いオーブンで焼かなければならない。差が出にくいという意味では初心者向けのお菓子だろう。

クッキーをくだいて溶かしバターと合わせ、クッキー生地を作る。お手軽だ。そして全ての材料をフードプロセッサーにかけて型に流し込む。オーブンに入れて焼く。なんて簡単なんだろう。

簡単すぎて、これだけでは満足できないと思った私はオルゴールアレンジをして遊んでいた。彼は読書をしている。話している時間も楽しいが、こういう時間も好きだ。そして彼の文字が書かれた写真を見つける。ニヤニヤする。相変わらず美しい。普段使わない言葉が並んでいる。ああ、彼はこういう言葉にも親しみがあるんだなあ。敵わない。そんなことを考えながら試行錯誤してようやくオルゴールアレンジが出来上がる。すぐに聴いてもらう。はあ幸せ。

ため息が出るほど甘美な時間を過ごしている、気がする。いつまでも続けることは不可能であろうこの状態を私は噛み締めている。

「コーヒーは最初の一口 甘いケーキの端っこ

ポテトは揚げたてにして美味しいとこは少しだけ」

チーズケーキを食べた。家で食べるチーズケーキの味だった。その味にほっとしながら、もっと美味しいものが作りたい、今度は手間をかけてみようとなどと思う。

カーテンを開けた。今日は月が綺麗なはずだ。「はず」というのは暦の上でそうだからだ。でも私はイメージの中の月を見ていた。空は暗い。本当の月は見えないでほしい。見えなくていい。表象(イメージ)を大事にしたい、そんな時だってある。

思いが伝わらないことを、もう何度だって経験していた

息が上がる。ほんの少し階段を上っただけでこれだ。しかし、日頃運動をしていないデメリットとしてこの程度の苦痛を味わうだけなら、それはそれで構わないと思ってしまう。人は実害が起こらないとなかなか改まって行動することがない。後々困るのは自分なのに。

洋服を見ていた。夏からそうだったけれど、今シーズンはラズベリーなどのベリー系の色味のアイテムに惹かれる。考えもなしに上下同じ色味のものを買おうとする。さすがに上下で合わせると派手すぎてキツいかもしれない。何色と合わせるのが正解なんだろうか。黒が無難だけど、無難すぎる感じがしている。カーキは少し勇気がいるけれど、合わないこともないだろう。デニムとは相性が良いように思う。キャメルとも合うだろうか。

「俺ビレバン行っているから」

彼がいう。どうして一緒に見てくれないんだろう。こんなに楽しそうにする私に興味がないのかな。

「一緒に見ようよ」

「ええ…」

嫌そうにする彼に少々落胆するも、すぐに気を取り直す。「これ、私に合うかな?」「今年はこの色ばかりが気になっているの。」「ああ、何か1点買うだけじゃ気が済まないな、買うなら上下買いたい。」独り言のように呟く私を彼は見ていない。どこか違う場所ばかり見ている。

洋服を見る前は、降りたことのない駅を降りてご飯を食べた。無愛想な接客をする女性の酷さとは裏腹に肉汁の溢れる和牛ハンバーグは美味だった。写真ではかなりのレアに見えたけれど、実際目の前にしてみると程よい赤味の差すお肉だった。彼はしきりに全体を見渡し、店員の女性を観察していた。飲食店に勤めているだけあって、見る目が厳しい。何か思うことがあるのだろうなと思いながら、その様子を私は観察していた。店を出てお互いに味や接客の評価をした。やはり彼はいろいろなところを見ていた。「ギャルっぽい人を雇っているのは店主の趣味かもね」と彼が言い、なるほど、と思った。最初に水が運ばれてきたとき、アートを施されたネイルを見て私はぎょっとしたものだった。でも味が良かったので良かったという評価に2人共落ち着いた。

そんな話をしながら次に向かったのは神社だった。何故か参拝したいと彼が言うので、ついていったのだけれど、参拝の作法を良く知らない。今時はスマートフォンでなんでも調べられるのだから、困ることはないのだけれど、この歳までろくに参拝してこなかったことが急に恥ずかしく思えてしまった。合っているか自信なさげに私は恐る恐る参拝し、近くにあったおみくじに興味を示す。恋愛の面が今回は特に気になっていたのだけれど、開けてみると、「中吉」。当たり障りのないことが書いてあった。「縁談 吉、とゝのう」。全く嘘も良いところだと思ったけれど、もしかしたら整うのか。どう整うんだろうか。そして、歌を声に出して詠む。おみくじに歌なんていつもついていたのだろうか。いや、ついていない気がする。春を待つようなそんな歌だった。

参拝を終えた私達はカフェに向かう。自家焙煎を行っているカフェが近くにあるらしい。これは期待できる。美味しいコーヒーが飲めることも嬉しかったのだけれど、期待に胸を膨らませながら歩く彼の姿が非常に愛おしく思えた。やや道に迷ったけれど、彼の方向感覚は素晴らしく良いのですぐに間違いに気づき、目的地に辿りつくことができた。

ボードには新入荷したという豆の名前が踊っていた。店内が良く見える店構えは私に好印象を与え、何の抵抗もなく扉を開け、店内に入ることができた。この辺に住んでいるであろうマダムたちがお茶の時間を楽しんでいた。人は多くないが、ガラガラというほどでもない。丁度良い感じだった。照明も良い塩梅。招かれて席に着くと、厚いメニュー表が配られた。ひとつひとつ丁寧に説明の入った親切なメニューだったが、種類の豊富さに驚きもした。さすがに多すぎて比較ができない。おそらくハンドドリップだろうブレンドコーヒーやストレートコーヒーに興味を示しつつ、エスプレッソがあったので、久しく飲んでないなと思った私はカプチーノを頼んだ。彼が楽しそうにしているのを私も楽しそうに眺める。心のどこかではこういうことももう最後かもしれないと思いながら。それがあったからか、何故かこのお店の豆を購入したいという思いが芽生えたので、彼に「豆が欲しい」とねだった。微妙な気持ちの変化は見えないのだろう、彼が何食わぬ顔で「ああうん」と返事をし、豆のコーナーを一緒に見る。種類が多すぎて自分ではどれが合っているのか分からない。結局彼が「ケニアにしようか」と決めたものにした。購入したのはたった100gだけれど、十分なように思えた。家に帰ったらすぐに淹れて飲みたい、それがやりたくてたまらない。となぜか強く思った。

そうするうちにコーヒーが運ばれてきた。思っていたよりカップが大きい。これで540円は妥当だな、という感じ。ハートのアートが目に入ったけれど、彼が描くハートの方が可愛いなと思ってしまったことをおかしく感じてニヤニヤしてしまう。「何?」と訊く彼に「いや、あんまり上手くはないなと思って」というと「普通だけどね」と答える。そうなんだ、これが普通なんだ。

飲んでみると、始めは味が分からなかった。いや、コーヒーであることは分かるのだけど、嫌な苦味や酸味がなくてすーっと体に染み渡るような感じがした。熱すぎて分からなかったのかもしれない。よく分からなかったけど、嫌な味がしなかったのでこれは美味しいコーヒーだと思った。

「美味しい」

「ほんと?」

「うん、甘みは感じないけれど」

嘘はついてない。そして彼が飲むところをじっと見つめる。見つめていると

「美味い!」

あ、本当に美味しいときの反応だ、と思いやっぱり美味しいんだなと安堵する自分が少しいた。本当に美味しそうに飲むなあと感心しながら私も再び口をつける。…ん?美味しい。さっきよりずっと味がする。甘みも感じられる。

「あれ、さっきより味がする」

「冷えた方が味出てくるからね。飲ませて。…ん、美味いね。甘い。これ、そのまま飲んだら多分相当酸っぱいね」

「確かに甘くなった」

よく分からないがそういうものなのか、となんとなく納得する。「酸味のあるコーヒーはミルクと相性が良い、ミルクと混ざると甘さが出てくる」という知識も彼から受け継いだものだった。コーヒーの話を延々と続けて、カフェを出た。

―私を見ていない彼は一体何を見ているのだろう。洋服屋さんを出て、食品売り場に向かう私は考えていた。振り返ると、私は彼を見ているのに、彼は私を見ていないんじゃないかと不安になる。嘘をついた。不安になれるほど何か期待を彼にできているなら、まだ安心だ。よそ見をする彼に私は諦めのようなものを感じている。思いが伝わらないことを、もう何度だって経験していた。苦しいと言えないことを何度も「どうして」と思った。お刺身を見ながら嬉々とする彼に微笑み、綺麗に並べられた宝石箱のようなお刺身の盛り合わせを彼と一緒に眺めている。今日はお刺身が晩御飯だ。欲しいものや必要なものを選んだ結果5800円にもなった食費も「もうこんなに買うことはないかもしれない」と思うとどうでも良かった。予定よりやっぱり重くなってしまった荷物を抱えて、同じくらいの歩調で帰宅する。今日はまだ合うみたい。

今日は朝食から夕食まで一緒に食べた。一緒に何かしていることが多かった。もしもいつもこうだったら……なんてことも考えたけれど、考えても仕方ないよねとすぐさま思考を正す。そしてやっぱりズレるのだ。映画を一緒に観ていたけれど、私は寝ているあの人がもうすぐ起きる頃だ、とそわそわし始めLINEの画面を頻繁に開くようになる。やっぱりズレてしまっている。映画のエンドロールまで観ることはなかった。そして、私は今この記事を打ち込んでいて、彼はベッドで寝息を立てている。

ただその文章の美しさに感心し、言葉を飲んだ

気怠い時間。またこの時間だ。私は中途半端な睡眠から無理矢理脱出し、揺り動いた。15時25分。以前ツイッターにも15時台の話を書いた。

15時台が好きじゃない。必ず眠くなる時間帯だから。すべてが気だるく流れていく。授業中は意識が遠のいて夢を見ているような感覚になるし、働いている時は手を動かしているのに生きた心地がしない。この時間帯に集中できたらどんなに作業が捗るだろう。しかし時はお構いなしにだらりと流れていく。

 

何もない日の15時台はさらに酷い。怠惰に怠惰を重ねたような重々しい空気に襲われる。時間が止まってしまったかのように何もかもが遅い。そしていつもマラソンをして疲れ切ったかのような体のコンディションになり、苦しくてたまらなくなる。

 ああ、同じ瞬間なんてないのに、日常においてなぜ「同じ」だと思ってしまえるのだろう。時計がいけない。時計が発明された背景はなんとなく知っているし、把握しているつもりだけど、感覚が「いらない」と言ってくる。いらない。現に私の寝室には時計がない。私の寝室はホテルのようなものだった。情事と眠る時以外出入りしないのだ。本棚はあるけれど、手にとってそこで読むためにはなかった。本はPCの前で読むからだ。寝室という空間にはベッドひとつあれば良かった。他は余計だった。だから、寝室にあれこれと置いている今の状態には違和感がある。ホテルの部屋のように時間を忘れることができる寝室に私は愛着があったし、…本当はここでもっともっと良い思い出を重ねたかった。

神経をすり減らした翌日、それが今日になるわけだが、日常の過ごし方さえ分からなくなっている。何かしないと時間が経たない気がして、作らないでおこうと思っていたのだけど結局クッキーを焼いてしまったし(いや焼かされたといった感じだし)、多少は結果的に楽しめたチャットも半ば強制的にやった節があるし、LINEも返事をしなければならない意識に突き動かされてやった気がする。相手には申し訳ないことをしたかもしれない。でも、私が全くやりたくなかったというわけではない。この微妙なニュアンスは筆舌に尽くしがたい。

画面の前でぼんやりしていたら、苦手な15時台が終わっていた。あれだけ怠さに押し殺されそうになっていたのに、それが次第になくなっていくのが分かる。「やあ」とやってきた16時さんは、どこか物悲しくて少々苦手なのだけど、同時に希望の光でもあった。

さて、ここで少し書くことについて話したいと思う。我ながらすごいなと思うところは、あまり読者の目を意識してない点にある。良いか悪いかはさておき(多分両方)、これをやりたくてもできない人が一定数いることを考えると、なんだか自分だけ宙に浮いているような気がしてしまう。今日とある人のブログを読んでいて、はあすごいなと感心した。書くために書く内容を探してしまうということ。読む人を意識して書こうとしてしまうこと。私はそんな事態になったことがおそらく一度もないのだ。もちろん0ではないと思う。私の意識のどこかでは読み手というものが存在しているだろうし、反応をもらえることは楽しみにしているのだが、「反応をもらうために書く」ということがほとんどないことに最近気づいた。書く時は意識がこう、ぶつっと切られている感じがする。普段は面白いことを書きたいとか、反応がほしいという意識はまああるのだけど、書く時になるとそれがすーっと抜け落ちてしまう。読み返した時に自分が面白いと思えるものしか書いていない。

だから今日もこうやって、15時台の怠さと、書くことのメモなんかを日記に書いている。自分にとっては書くべき内容だったから。しかし、他者というものを意識した時、あまり面白くないのでは?という感じがする。15時台の怠さや書くことなんてどうでも良いだろう。そうなってくると、何が他者にとって面白いのかを考えて書かなければならない。非常に苦しいことだと思う。「他者」とはあまりに漠然としすぎているからだ。この人のために、とかこの人とこの人が読める内容にしよう、と具体的に読み手を推定できればもっと書きやすくはなる。けどやはりこの方法では精神衛生的に良くない感じがするので私はやらないと思う。

今日ふっと思った。人は思ったほど他人に興味がないのでは。と。自分に関心がある。自分のことと照らし合わせることができるから、他人の書いたものに共感することがある。その相手に、相手の書いたものに純粋にぐっと惹かれることなんて滅多にないのでは。だから、この間の読書体験は非常に貴重なものだったと改めて思う。あるフォロワーさんの記事。感想は本人に伝えたので割愛するけど、それは本当に良い記事だった。本人的にどうだったかはさておき、私にとっては人生で数回しかないほどの貴重な体験をさせてもらった。何度でも読みたくなる文章。ただただその文章の美しさに感心し、言葉を飲んだ。と同時に書きたいという欲を掻き立てられるものだった。

やはり良いと思うものにはそれ相応の時間がかけられているので、このブログのような日記という記事ではそういった魅力は出しにくいのだと思う。私もいつか書きたい、書かなければ、という気になった時に時間をかけて丁寧に言葉を綴ってみたい。

貴方との終わりを見つめる覚悟

―いつかの記憶。

「僕は何をどこで間違えたのでしょうか。」

眠れない夜だった。「さみしい」と珍しく弱みを見せた人がいた。どうしたのだろう、とリプライを送ってみる。返事があったことに私は少しほっとする。

「酔って寝ようとしたらたまらなく寂しい気持ちになりました。いろいろと呟いたことで落ち込んでいます。」

そんなに何か落ち込んでしまうようなことを呟いたのだろうか。読み返してみるも、よく分からない。ただ何か苦しいことだけは伝わってくる。私はDMでさらに事情を聞こうとする。でも返事は来ないかもしれない。この人とはあまり話したことがなかった。つい数日前、私が「告白」しただけの相手。「文章から伝わる心に惹かれた」という内容だった。愛の告白ではない。私なんかより、きっと他に話したい相手がいるのだろう。そう思っていたので期待はしていなかった。ところが予想に反してDMが届く。

「僕も少しの告白をしてもいいですか?すいません、すぐに忘れてくださいね。」

すぐに忘れろと言われて忘れられる人がどれほどいるんだろうか。返って強調されてしまうであろうこの後にくる内容に身構える。怖さもあった。自分ではどうしようもないことを言われるんじゃないかという傲慢ともいえるその考えを振り払う。私は話を聞くことしかできない。うんうんって聞いてあげることしかできない。自分に言い聞かせる。私はすぐに解決策を探してしまう悪い癖があった。この人がどちらの対応を求めているかは明白だった。仲良くないような私なんかに話すことだ。忘れてほしい、というほどだ。きっとただ聞き入れてほしいだけ、いや、聞き流すだけで良いはず。あれこれ考えているうちに長文のDMが届く。

「僕はすごく孤独です。誰かに愛されたいし、誰かを愛したいです。でも、一般に言われている愛は汚いと思います。空想で綺麗な愛を描いても、すぐに批判の目を向けてしまい、そのせいで自分の汚さが露わになってしまう。苦しくて苦しくて潰れてしまいそうです。肉体的な愛の表現を欲しているものの、それを感覚で美しいと陶酔することができないのです。僕は、表現によってその問題を解決しようとしていますが、出口が見つからずに苦しんでいます。他者の醜さは受容できても、自分の醜さは受容できません。それは僕が未熟だからだと思うんです。もう少し辛抱してさえいれば、なんとかなる気はしているのですが」

聞き流せる内容ではなかった。予想の斜め上をいく内容だった。こんな重大なことを私なんかに聞かせて良いのだろうか。忘れてくださいと言われた意味が少し分かった気がする。これはもっと親しい人に話すべき内容だ。

潔癖な人だ、と思った。美に固執しているような感じがする。そして、孤独だった。愛に触れられない、仮に触れる時を想像しても、それに陶酔することができない。なんて苦しいのだろう。私にはない感覚だったから、正直なところあまり共感できる話ではなかった。でも、想像するにすごく孤独で苦しいのは分かる。

「苦しいと今ここで発することで、その苦しみが少しでも緩和されれば良いのだけど。」

そう言うと、思ってもみない返事が来る。

「苦しいと発することで誰かが苦しんでしまうかもしれないことが苦しいです。」

何なのだろうこの人は。ずっと1人だったのだろうか。私は好んでその苦しみを聞いているし、できれば共感したいと思っているのに。その意に反して、いやそれを分かった上で言ったのだろうか。

「一緒に苦しみたいと言われたら?」

「そんなこと言ってくれる人がいるのでしょうか。」

今までいなかったのだろうか。少なくとも私は今どうにかしたい思いでいっぱいだ。

「いますよ」

即答してしまった。それは自分がそういう気持ちになっていたから、確信がある故に言った言葉だったが、関係性を何も考慮せずに言ってしまい、迂闊であったなとすぐに猛省した。その後少し距離を取って修正した。というか距離を取られた。そして会話は終了した。

―「僕は何をどこで間違えたのでしょうか。」

何も間違えてはいないし、今は何も起こっていないと思われるのに、どうしてこの人は悩んでいるのだろう、とこの言葉を言われて変な気分になった。私が何か見落としてきたことなのか、それともこの人と同じようにこれから私が直面する問題なのか。

良くは分からなかった。見えた解決策は、事実を受け入れて「成熟」することだった。私が若い時、同じテーマではないにしろ愛について悩んだこともあったような、と思い出した。抱き合っている最中に号泣して相手を困らせたっけ。「貴方との終わりを見るのが怖い。覚悟ができない」などと意味不明なことを言ってみせたっけ。遠い記憶だった。

愛における美なんていまだに分からないのだけど、近似の悩みがここ最近姿を見せる。

「確かなものを求めているのですか」

自分の言葉だ。そんなものはない。「割り切れないよ。」と相手は言った。その通りだった。何年経っても「貴方との終わりを見つめる覚悟」なんてできやしなかった。それは死別でも、生き別れでもそうだ。いつか裏切ってしまうかもしれない自分がいるのが怖い。「愛が歪んでしまう。」そう言われた。その通りだ。怖い。でも、実際はその一歩先を行っていた。「それでも今貴方が好き」。この気持ちに尽きる。この気持ちさえ手元にあれば、あとはどうとでもなる。どうにかしていく。今貴方が好きなのだから。

…結局この人は今どうしているのだろう。悩みは解決したのだろうか。今まさに悩んでいる最中なのか。私の知る術はなかった。この人はもう私の知っていた人ではなかった。そう、すっかり変わってしまったのだ。だから、聞くことができずにいる。あの頃に戻っても聞けることでないし、もし平行世界が存在して、この人が変わらずに今いるのなら、「最近どうですか」なんて当たり障りのないような言葉をかけて、聞き出してみたいものだ。