Emu’s blog

よくある日記

貴方との終わりを見つめる覚悟

―いつかの記憶。

「僕は何をどこで間違えたのでしょうか。」

眠れない夜だった。「さみしい」と珍しく弱みを見せた人がいた。どうしたのだろう、とリプライを送ってみる。返事があったことに私は少しほっとする。

「酔って寝ようとしたらたまらなく寂しい気持ちになりました。いろいろと呟いたことで落ち込んでいます。」

そんなに何か落ち込んでしまうようなことを呟いたのだろうか。読み返してみるも、よく分からない。ただ何か苦しいことだけは伝わってくる。私はDMでさらに事情を聞こうとする。でも返事は来ないかもしれない。この人とはあまり話したことがなかった。つい数日前、私が「告白」しただけの相手。「文章から伝わる心に惹かれた」という内容だった。愛の告白ではない。私なんかより、きっと他に話したい相手がいるのだろう。そう思っていたので期待はしていなかった。ところが予想に反してDMが届く。

「僕も少しの告白をしてもいいですか?すいません、すぐに忘れてくださいね。」

すぐに忘れろと言われて忘れられる人がどれほどいるんだろうか。返って強調されてしまうであろうこの後にくる内容に身構える。怖さもあった。自分ではどうしようもないことを言われるんじゃないかという傲慢ともいえるその考えを振り払う。私は話を聞くことしかできない。うんうんって聞いてあげることしかできない。自分に言い聞かせる。私はすぐに解決策を探してしまう悪い癖があった。この人がどちらの対応を求めているかは明白だった。仲良くないような私なんかに話すことだ。忘れてほしい、というほどだ。きっとただ聞き入れてほしいだけ、いや、聞き流すだけで良いはず。あれこれ考えているうちに長文のDMが届く。

「僕はすごく孤独です。誰かに愛されたいし、誰かを愛したいです。でも、一般に言われている愛は汚いと思います。空想で綺麗な愛を描いても、すぐに批判の目を向けてしまい、そのせいで自分の汚さが露わになってしまう。苦しくて苦しくて潰れてしまいそうです。肉体的な愛の表現を欲しているものの、それを感覚で美しいと陶酔することができないのです。僕は、表現によってその問題を解決しようとしていますが、出口が見つからずに苦しんでいます。他者の醜さは受容できても、自分の醜さは受容できません。それは僕が未熟だからだと思うんです。もう少し辛抱してさえいれば、なんとかなる気はしているのですが」

聞き流せる内容ではなかった。予想の斜め上をいく内容だった。こんな重大なことを私なんかに聞かせて良いのだろうか。忘れてくださいと言われた意味が少し分かった気がする。これはもっと親しい人に話すべき内容だ。

潔癖な人だ、と思った。美に固執しているような感じがする。そして、孤独だった。愛に触れられない、仮に触れる時を想像しても、それに陶酔することができない。なんて苦しいのだろう。私にはない感覚だったから、正直なところあまり共感できる話ではなかった。でも、想像するにすごく孤独で苦しいのは分かる。

「苦しいと今ここで発することで、その苦しみが少しでも緩和されれば良いのだけど。」

そう言うと、思ってもみない返事が来る。

「苦しいと発することで誰かが苦しんでしまうかもしれないことが苦しいです。」

何なのだろうこの人は。ずっと1人だったのだろうか。私は好んでその苦しみを聞いているし、できれば共感したいと思っているのに。その意に反して、いやそれを分かった上で言ったのだろうか。

「一緒に苦しみたいと言われたら?」

「そんなこと言ってくれる人がいるのでしょうか。」

今までいなかったのだろうか。少なくとも私は今どうにかしたい思いでいっぱいだ。

「いますよ」

即答してしまった。それは自分がそういう気持ちになっていたから、確信がある故に言った言葉だったが、関係性を何も考慮せずに言ってしまい、迂闊であったなとすぐに猛省した。その後少し距離を取って修正した。というか距離を取られた。そして会話は終了した。

―「僕は何をどこで間違えたのでしょうか。」

何も間違えてはいないし、今は何も起こっていないと思われるのに、どうしてこの人は悩んでいるのだろう、とこの言葉を言われて変な気分になった。私が何か見落としてきたことなのか、それともこの人と同じようにこれから私が直面する問題なのか。

良くは分からなかった。見えた解決策は、事実を受け入れて「成熟」することだった。私が若い時、同じテーマではないにしろ愛について悩んだこともあったような、と思い出した。抱き合っている最中に号泣して相手を困らせたっけ。「貴方との終わりを見るのが怖い。覚悟ができない」などと意味不明なことを言ってみせたっけ。遠い記憶だった。

愛における美なんていまだに分からないのだけど、近似の悩みがここ最近姿を見せる。

「確かなものを求めているのですか」

自分の言葉だ。そんなものはない。「割り切れないよ。」と相手は言った。その通りだった。何年経っても「貴方との終わりを見つめる覚悟」なんてできやしなかった。それは死別でも、生き別れでもそうだ。いつか裏切ってしまうかもしれない自分がいるのが怖い。「愛が歪んでしまう。」そう言われた。その通りだ。怖い。でも、実際はその一歩先を行っていた。「それでも今貴方が好き」。この気持ちに尽きる。この気持ちさえ手元にあれば、あとはどうとでもなる。どうにかしていく。今貴方が好きなのだから。

…結局この人は今どうしているのだろう。悩みは解決したのだろうか。今まさに悩んでいる最中なのか。私の知る術はなかった。この人はもう私の知っていた人ではなかった。そう、すっかり変わってしまったのだ。だから、聞くことができずにいる。あの頃に戻っても聞けることでないし、もし平行世界が存在して、この人が変わらずに今いるのなら、「最近どうですか」なんて当たり障りのないような言葉をかけて、聞き出してみたいものだ。

 

私は幸福だったし、今でも幸福に違いない

るんるんで予約したものの、なぜか行くのが憚られるもの。美容室。重い体を起こし、シャワーを浴びて準備をした。昨晩お酒をやってしまったので、コンディションは最悪だった。顔が浮腫んでいる。胃が何か落ち着かずにゾワゾワしている。そしてとにかくだるい。また嫌だな、と思いながらベースメイクをする。そしてポイントメイク。

だるい。どうしてこうもメイクには工程が多いのか。なぜそれを普通の人たちは何食わぬ顔で平然とやれるのだろうか。電車の中でメイクをする人たちは特にすごい。それは皮肉でもなんでもなく、本当に技術的に高いように思えてならない。揺れ動く電車内でアイラインを引くなんてどんな訓練をしたらそんな高等技術を使えるのだろうか。そんなことを考えながらだるいだるいメイクを終えて、なんとなく生活を送れるようなコンディションへ次第に変化していく。

指名はあえてしない。このお店の中で誰が自分に1番合っているかを知りたくてずっとしていなかった。でも、もうほとんどのスタッフにカットしてもらったので、そろそろ選択しても良い頃合いだ。今日は前回と同じ人だろう、と安心しきっていたら、見たことのない人がやってきた。ああ、そういえばスタッフ一覧に載っていたな。

接客が異様に冷たい人だった。すごく機械的に、お決まりの文句で会話をする人。「今日はお休みですか」仕事中に来るわけないだろうと思うし、もし仕事してない人に当たったらなんて切り返すのだろうと思いながら、「ええ」とにこやかに答える。このにこやかに答える自分が嫌いだった。その上「◯◯さんのお名前って珍しいですよね」などと話を続ける。これじゃまるで話がしたい人みたいだ。私は全く話したくなかった。施術内容に不満はなかったのでまあ良いけど、リピートはなしかな、と思った。帰る時、初めてその人の顔の造形をまじまじと見た。あまり格好良くはなかった。だからなのか目が死んでいた。

ここ数年は複雑な活動を続けているし、複雑な心境でいることが多い。何の話かというと複数の人と関係を持つということ。いわゆる…言い方はいろいろあるが、どうも自分にはピンと来ていない。そんな不純さが自分の中にないからだ。今の彼にこの記事が見つかっても良いという気持ちがあるから今ここにはっきりと書いておく。

もう最後になるかもしれない餃子を彼のために作っていた。歌が頭の中で流れる。「こんなにも穏やかな終わりがあるなんて不思議ね」本当に穏やかな終わりがあるのだな、と思う。穏やかなのは自分だけで、彼にとっては違うものになるだろうけれども。想いが尽きたわけではないのがややこしい。尽きていたらもっと美化して小説にでもできてしまえるのに、好きな気持ちは変わらない。何か、好き以外の何かが枯渇しているのは分かる。それは付き合い始めの熱情だったり、ときめきと呼ばれるものだったりするのだろうけれども。でもそんなものなくたって良かった。この関係が続けられるなら続けたいという気持ちもある。でも、彼の性質と私の性質が合わない、彼に受け容れてもらえない。ただそれが苦しかった。ずっとずっと苦しくて、これからも苦しまなければならないのなら、そして彼に知れた時に彼が苦しい思いをするなら、どうしてこの関係を続けられるだろうか、いや無理だろう。私はきっとうまくやれるけど、そういう問題ではない。彼も知らずにいれば苦しまずに済むが、そういうことではない。

次の彼を想いながら餃子を包む。美味しいと言ってもらえるのだろうか、というかいつ作る機会に恵まれるかもまだ分からない。前途多難すぎる、と理性がいう。でも、それを覚悟していた。いろんな覚悟があるけれど、この覚悟は私の人生の中でそうない覚悟であるに違いなかった。次の彼を想いながら、今の彼に連絡を入れる。「仕事遅いの?大丈夫?」そんなことももう日常茶飯事だった。これまでもずっとそうだったのだけど、今若干の違和感を伴っているのは、そろそろ複数と関係を持つことに疲れ始めているからだろうか。サガンの『ブラームスはお好き』のラストに出てくる「私はおばあちゃんなの、もうおばあちゃんなのよ」みたいな感じのセリフを思い浮かべる。分かる。私もいい加減おばあちゃんなのよ、と言いたい。ふっとここでなぜかその前の人の温もりを思い出す。ああ、どうしてあんなに温かかったのに、突然私の心は冷え切ってしまったのだろう。切なくなる。でも、私は幸福だったし、今でも幸福に違いない。

楽しい時期はあった。楽しい時というのは複雑に絡むポリフォニーを構築できた喜びを掴んでいた時。多分それはある意味残酷極まりないことなのだけど、私はそれを子どものように眺めている節があった。躁のせいもあった。そうでなければ、鬱のときにあんなに苦しむことはなかっただろう。自分の為すことに責任を持てずにいた。でも今は違う。今後どうなるかは分からないけれど、きちんとしたい思いがあった。「きちんと」というのは道徳的にということではないし、世間からズレる決意をしたばかりなので、世間の常識やら規範とやらに沿いたいなどという話ではないのだけど。自分の中の正しさをもってきちんとしたい思いがあった。関係してくれる人を出来る限り傷つけたくなかった。だから事実を知ってしまうと苦しんでしまう彼のことは解放してあげたかった。そして自分自身解放されたかった。

残り少ない彼との時間を楽しみながら、前の人のことを惜しみながら、今の人を想う様子は実に滑稽に違いないし、非難されるべき状態であるのは承知の上で、私は今を生きている。以前一緒に包んで食べた思い出を振り返りながら、1人で餃子を食べた。

夢との境で苦しんでいた

しんどさと心地良さが交互に来ているようなここ数日。夢の中を泳いでいるような感覚にもなる。今日は良く眠れなかった。息苦しくて目が覚め、思考の渦に飲まれ、苦し紛れにLINEをしている途中で思考がダダ漏れになり、その涎を拭わなければならなかった。その間寝ていたのかもしれない。良く分からないけれど、夢との境で苦しんでいたのには違いない。

このここ数日の余裕のなさは一体何なんだろう。縋るように生きている。何がそうさせているのだろう。悩みはいくらかあるのだけれど、そればかりが原因でない気がしてきた。しかし、鬱と呼ぶにはあまりに元気が良すぎるし、思考だけが鬱状態化するなんて症状聞いたことないので、おそらく正常の範囲なんだろう。

某漫画家と連絡を取り、近況を報告すると、やっぱりそうきたか、というような感じの感想をいただく。まあ、そうだよね。私傍から見たらそんな感じだよね。詳細を書くことはやめておくけど、私は以前からどこかおかしい。ただ1点だけ反論したい箇所があって、私は男を見る目がないということはありえないのだと思う。それは社会的な、いわゆる客観的な捉え方をしても今までの人たちは立派だったし、主観的に見れば尚更そうである。私にはもったいない人たちばかりだった。事実もったいなさすぎて別れた人もその中にはいる。それが主な別れた理由というわけではないけれども。

食後の動悸が来ていて今現在も苦しい。動悸による苦しみだということは分かっておきながら、生きづらさから来ているのではないか、とやや考えもする。人に頼りたいところだけれど、頼れる人も今はいない。どうしよう、苦しい。私の救いは、苦しみを文章に起こして自分を慰めることができる環境があるということ。

結論はもう出ているので、ただうんうんって話を聞いてくれる人にこの内実を打ち明けたい。そういう感情がある。できれば普段あまり関わってない人が良い。そう、私をただの他人の、多数の中の1人だと見做してくれるようなそんな距離の人が良い。そこに要らぬ感情をよこさない人が良い。またなんて独りよがりな考えだろうとここまで書いていて思うのだけど、思うぐらいは許してほしい。

でも、1つここで明かしておくと、私は好き好んで苦しんでいる節がある。いや、生きづらさを積極的に感じたいとかそういうことではないし、この状況に好き好んでなったわけではないのだけれど、なんていうんだろうか、好きな人のためなら苦しめる状態に今ようやくなった、といったところだろうか。以前にも似たような状況にはなったことがあるのだけど、その時はあまりの辛さに耐えきれず、意味不明なまま気持ちが尽きてしまった。同じ、ということはあり得ないけど、また気持ちが尽きてしまったらどうしようという不安は少しあるのが正直なところ。しかし、そんな心配をよそに、私の気持ちはこれから何年も続いていきそうな気配があるし、以前感じた環境が大きく変わることへの恐怖だとかしんどさが今回はあまりない。全くないといえば嘘になるけれども。だから大丈夫なんだ。安心して良いんだ。

良い意味で淫靡さを感じない、そして背徳的だと思わない、すごくまっすぐな気持ちでいられる人と出会えて本当に嬉しい。もし、何もかもきっちりと方を付けられたら、この喜びを精一杯表現したい

自分で選択してきた集積に満足している一方で、息苦しさも感じている

 目覚めた。外はまだやや暗い。たくさん寝ていて良いはずなのになんだか早く起きてしまった気がする。枕の右隣の定位置にあるスマートフォンを手で探り当て、時間を確認する。この部屋には動く時計はなかった。そう、動かないオブジェとしての時計ならある。先日旅行に行った時に土産として買ったのだ。なぜ動かさないのかというと針の動く音が異様に大きいからだった。どの部屋に設置しても音的に悪目立ちしてしまうその時計は、結局私の寝室のインテリアとしてステンドグラスのランプとともに飾られることになった。

 5時半だった。あまりに早すぎる。早すぎるけれど、夜勤の人は丁度勤務中だった。私はその人に「目が覚めた」とLINEをする。もしかしたら返事が来るかもしれないという期待を拭いきれずに目覚めたなんてどうでもいいようなことを呟いてしまう。しばらくして返事が来ないので、再び寝たり起きたりを繰り返す。熟睡とは程遠い私の睡眠の質は、アプリによれば「友達以上恋人未満な睡眠」らしかった。何それ。

 ようやく起き上がる気になった頃にはもう夜勤の人が退勤する時間になっていた。あわててアイスコーヒーを淹れ、電話をかける。気持ちひとつで話題には困らなかった。そう、何を話すでもなく話すということが、互いに好意を持っている場合は可能なことに再度気づかされ、話した後しばらくそのことについて考え込んでいた。逆に気持ちが抜け落ちてしまった相手に対しては、上手いリアクションひとつも取ることができなくなってしまい、いわゆる「コミュ障」的な会話になってしまう。私は素直すぎる。

 話を終え、のろのろと出かける準備をする。今日はなんだかすごく人恋しい感じがして、落ち着かなかった。平日の誰もいないTLにかまってほしいと言葉を零すも、反応する人はいない。忙しい人たちばかりであるというのと、私と話せる距離感の人がいないというのと、そもそも私に魅力もコミュニケーション能力もないというのがフォロワーに筒抜けであるということ。このいくつかの可能性を考えながら、嫌々化粧をする。ベースメイクが嫌いだった。本当は顔をこの肌色のクリーム状のテクスチャーで覆いたくない、という感情が塗る時にいつも喚起される。肌の穴という穴を塞いでいる感じがたまらなく嫌だった。そう、閉塞感だ。「苦しい」と思いながら化粧を続け、なんとか外に出られる状態へと化けた。

 風が気持ち良い。気温も程よく、空も青い。引きこもりがちな私にはあまりに清々しすぎて何か心を家に置いてきてしまったような気にさえなる。散歩をしても良いなと思ったけれど、散歩をしている間あれこれと考えに耽るのも癪な気がして、なかなかいつも実行できない。今日もそういう日だった。家に心を忘れたまま雑用を済ませ、お昼を買う。今日はそんなにお腹が空きそうな感じではなかったので、サンドイッチにしようかなとスーパーをぐるぐる回りながら考えた。そういえば、Yちゃんのお昼はいつもサンドイッチだな。サラダも一緒に写真に載せていた。サラダとサンドイッチ。どことなくヘルシーな感じがして良い。今日はこれにしよう。

 早々に買い物を済ませた私は、再び家へと帰る。ベースメイクの閉塞感は嫌いなのに、カーテンを閉め切った閉塞的な部屋には安心感を覚えることを発見した私は、人の性質なんて案外いい加減なんだなと思った。ただ、部屋にいることに正直飽き飽きしている自分もいた。そして、この生活を窮屈に感じる自分もいた。苦しい。どうしてこんなに苦しいんだろう。じっとりと汗をかいた背中を鈍く感じとると、「多分暑いから苦しいんだ」という気持ちになったのでエアコンのスイッチを入れる。あ、電池が切れたんだっけ。新しいのどこだろう。とりあえず本体の電源を入れる。

 涼しくなってくると、幾分息苦しさも軽減されたように感じた。本を読んでいた。珍しく柔らかい文章の本を読んでいる。小説なんて年に2,3冊読むか読まないかくらいで、超のつく遅読である。だから読む本は選びに選び抜いたものが多い。けど、この本は違った。朝電話をした相手からこないだもらった本だった。借りた、のかな?どっちなのか良く覚えていないけれど、多分くれたんだということにしておく。さらさらと読める文章に、さらさらと入ってくる内容。砂時計のように時間とともに進んでいく話に、専門書にはない心地良さや面白さを感じていた。内容も息苦しさを感じている今の私には丁度良かった。旅行の話だったのだ。でも、私の息苦しさは彼女のように旅なんかで解決するものではなかった。もっともっと根深くて、どうしようもない問題だった。

 今まさに人生の岐路に立っている感じがしている。このままこの日常を続けるという選択と、日常と決別するという選択。「日常を続ける」のにも2つあって、新しい日常を受け入れるかどうか、という選択と、本当にこのままの状態を死ぬまで保持するという選択がある。親は私にいわゆる普通の人生を歩んでほしいと思っているし、他の周囲の人間も今のところそうなるだろうと思っているに違いないが、私はそこから一歩外へ出たい気持ちがますます強くなっている。人のために生きることを昔は選んでいたし、その道にいる間は死ぬまでそれをやり通せると思っていた。実際その道に進んでいればできたはずだ。でも、無理が祟って病気をしたことで私の人生は大きく変化した。一度こういう経験があると私は人のために生きられないんじゃないかという気がする。子のために生きたり、パートナーのために生きたり、そういうよくあることが私の自己中心的な性格のせいでうまくいかない気がするし、そういう性質を持っていると自覚しているのに、さも利他的に動けるように皮を被っている今の自分が憎い。なんだかこのままではいけない気がしている。

 感傷的な気分になった私は今こうしてまさに日記らしい日記を書いているわけだが、どうだろう。この日常、いつまで続けるんだろうか。続けられるんだろうか。本当に大切なものってなんだろう。肌の穴という穴にファンデーションを埋め込むような日常である。塗られた皮膚は平らになって、地の肌よりうんと綺麗になるし、色を上から塗ると映えてさらに綺麗になるいうことも分かっている。それに、メイクをすることで人に見られてもおかしくないのだという意識を纏えるのも重要で、ずっとずっと安心できる。安心できるのだけど、本当の肌はいつまでたっても本当の平らにはなってくれない。スキンケアには力を入れないの?と心の私が囁く。仮にスキンケアに時間とお金をかけたって、穴自体は埋まらないのも分かっている。どの道穴がある限りだめなんだ。そんな気になる。自分で選択してきた集積に満足している一方で、息苦しさも感じている。本当に強欲だと思う。でも何か捨てなければならない時期に来ているんだということも分かっていて、今、私は腕から溢れそうになっている宝物を歯を食い縛りながら抱えている。

必要な言葉をひとつひとつ積み重ねればいい

生活を楽しむということの難しさを考えたことがある人はどのくらいいるんだろう。最低限やらなければならないこと、それプラス暇な時間に何をするか、この2つで基本人生は構成されている。最低限やらなければならないことにも種類があって、もうこの時間にやると決まっているものと、いつまでにという期日はないけど、まあこのぐらいの間隔でやらないとまずいよねというものがある。あんまり人生を楽しむとかそういうスケールで話したくはないのだけど、人生を楽しめている人ってこの「最低限やらなければならないこと」を楽しんでいる人が多いように思う。私は普段楽しんでいる方だけど、ふと煩わしくなる時もある。何かこう嫌気がさすような、突然煩わしく感じるようなそんな時。もしその状態がずっと続いてしまったらどんなに生きづらいことだろう、と想像すると、生活が楽しめていない人の気持ちも少し分かるようになる。

今日は詩を書き上げた。書き上げたけど、まだここの話をもっと詳しく書きたいとか、こういう書き方じゃなくてもっと違う切り口があるはずなんだよもっと考えたいよと書き上げた側からあれこれ考えてしまっている。でも、この時に書いたこれはこうでなければならなかったのだし、あれこれ今から手をつけてもな、ということもありこのままの形に落ち着いた。まあ気持ちにケリはつけられたかな。

本を読み始めた。本自体はするする読めるけど、LINEが来て気になってしまったのでそこで読むのをやめてしまった。でもこれは早く読めそう。

今眠っている人が目覚めるのを心待ちにしている。そればかりが気になってしまい、新しい詩に手をつけられずにいる。次に書くものをどういうものにしようか少し考えながら、その人のことを考える。今では随分と私のことを知られてしまったなと思う一方で、私はそれほど相手のことが掴めているのか分からない。多分その人より洞察力はないし、考えもしてないと思う。なぜならその存在に触れると頭が真っ白になってしまうから、そして自我が邪魔をするから、相手を見つめることに注力できていないのだ。

花の詩を書きたいと思う一方で、それ以外の詩も書きたいという願望が混ざっている。焦る必要はない。必要な言葉をひとつひとつ積み重ねればいい。何も持ってなくても良い。自分の今あるものでつくることが何よりも大事。良く観たい。良く観て気づきを得てそれを書きたい。日記を書き始めてから、書くことへのハードルが下がりつつある。

今日は普段聴いている音楽も新鮮な音に感じられる。良い1日だと思う。買い物もしたし、何もかもがパーフェクトな感じがする。と思ったところで洗濯するのを忘れていた。洗濯しよう。洗濯をして、音楽の本を少し読んで、目覚めるのを待とう。こんな気持ちになるのも久しぶりだな。世界に、君にありがとうって言いたい。

「祈り」

何の特徴もない花を噛み砕き

滲んだ血で白い壁を塗り

ひしひしと心に亘る躍動に

狂気のしらべを君は見る

聴くのをやめろと言い做して

異なるしらべを君が聴き通うまで

私の心はどこへゆく

 

極寒の地へ行けども 光を閉ざせども安寧があり

いつまでたっても到達しえない

その境地は、花は袂にある

分かつまでは打ち守ると

時折嘔吐きながらも怺える

 

「花に特徴は本当にないのか」

「異なるしらべはいずこか」

色々な問いかけを私は飲み込み

ひとつの花を君に差しだし続ける

 

目に映らぬ侘しさを抱え

また血で滲む君の知らぬふりはできず

「袂にある花それには億万の繋がる脈があるのだ」と

生命の輝きと秩序の発端を見ている私は

そっと君の滲んだ唇に花で触れていう

 

血で染まる花びらを見

ふと気づいた私はさらにもひとつ気がつき

切り刻もうとした己の腕で花の絵を描き始めた

すごく切ない顔をしているなと思うことが時々あって

飛行機に乗っているであろう人を思いながら今から文章を書く。飛行機といえば、ある詩を高校の時に書いた。

『dreaming in the plane(飛行機の中で夢を見る)』

雲の上を抜けた深い虹の海を

銀の肌をした魚が泳ぐ

虹の色を纏った魚(わたし)は

燦然と輝く太陽を追いかけてどこまでもゆく

幾千の星達とともに虹色に輝く私は jewelry fish

彼方に焦がれて

大した詩ではないのだけど、雲の上の虹色の世界を飛行機が飛んでいて、その周囲の色を纏いながら彼方(かなたとあなたを掛け合わせている)を目指している。そんな話。書いた本人が明かしてしまうのはホントは良くないのだけど、少し言ってしまうと、例えば、音楽をやることの本当の喜びを知るためでなく、音楽をやっている好きな人を想い、その人と音楽をするためにピアノをやるのだめみたいなそういう話をここでは書いている。でもそのままでは一緒にいられない、みたいな。良いよね、「のだめカンタービレ」。

こんなにも明日が来るのが憂鬱になる時が他にあるだろうか、みたいな時間を今過ごしている。今日までが楽しかっただけに、この後と明日明後日を思うと深い溜息をついてしまう。体力に自信がなさすぎて、この3日間の予定をこなせるか、その前からもいろいろと計画していることができるかすごく不安だったのだけど、全部自分のやりたい通りにできて、願いが叶って良かったなと少しほっとしている。明日明後日を乗り越えないと、完全には喜べないのだけどね。

すごく切ない顔をしているなと思うことが時々あって、それはその人の持っているもの、デフォルトがそうなのか、そういう表情を出しているのかいまひとつはっきりとはしてない。その顔を見ると胸がきゅうと締め付けられて、抱擁したくてたまらなくなる。その瞬間を何度も思い出しては、ああ幸福になってほしいと思う。

新緑の美しさを、新しい命を私は摘み取り去ることができずに、そのまま水を与えてすくすく育つところを眺めてしまう。それは花を付ける前に何かの弾みでバッサリ切り取られてしまうこともあるし、花を咲かせたのにすぐに萎んでしまったものもある。新緑が顔を出した瞬間に踏み躙ったこともある。普通の人はそうするのだ、と言い聞かせて私は涙を流しながら踏んでクシャクシャになったその新緑の葉を埋葬したこともあったっけ。もうすでに枯れている何かを、枯れていないと言い聞かせる日常に、でも枯れていなくて変容しただけの何かは確かにここにあって、完全にそれが萎れるなんてことはないだろうし、かといって新しい命と共存できないそれをそのままにしておいて良いのか、どちらかを潰すしかないんだろうかと考えたり、またそういう状態のまま水やりをしてしまって現状維持を図ったり、人生とは迷いに迷うこともあるんだなと意味不明なことを考える今日この頃。とりあえず、美味しいアイスを買って2人で食べようと考えながら結局は1人ずつ別々に食べている日常がそこにある。