Emu’s blog

よくある日記

音楽をやっている限りは貴方と繋がっていられる

音楽をやっている限りは貴方と繋がっていられる。

そう思う日々だ。そこの貴方とも貴方とも、私は音楽がなかったら繋がっていなかったであろう。そんな繋がりがいくつもある。たまになぜ私はこのような道を選んだのだろうとふりだしに戻ることがあるけれど、この道は私にとって最も開けていた道であり、あえて選んだものではないことは明白だった。事の発端としては音楽をしていたから音楽を選んだのだけれども。何かを考える前にやっていた音楽がまさかここまで影響を齎すことになろうとは、やらせていた親も考えていなかっただろう。それだけ幼少期にさせる習い事というものは重要なのだ。音楽をやっていたら、「音楽で食べていきたい」や、「音楽にずっと携わっていたい」などと思うのは自然なことだ。だから、そこで親が「そうは簡単にいくまい」と反対する気持ちが未だに理解できない。そのまま応援すれば良い。結果的にその道でいけなかったとしても、そこに至るまでに培われた能力はきっと無駄ではないと思う。

何をやったら良いか分からなくなる時、西洋音楽の場合は楽譜を見れば良い。昨今の音楽を聴けば良い。こんなに恵まれた環境があるのだ。何も困ることはない。でも、1人でやっているとどうしたらもっと上手くなれるか見えづらいということは確かにある。作曲は教えてもらうものではないかもしれない。理論は教えたり、教えてもらったりすることはできるが、作曲そのものとなるとどうだろうか。一般的な楽曲の作り方を教えるということはなかなか難しいのではなかろうか。ジャンルを絞ったり、条件をもう少し加えたりすればもう少し易しくはなるかもしれない。でも、作曲そのものというのは教えにくいはずである。どんな方法がその人に適しているか分かりづらく、作り方がいくつもあるからだ。これは他の分野でもそうだ。小説の書き方だってきっとそうである。ハウツー本は無きにしもあらずだが、本当のところ、小説の書き方なんて教えようがないのだ。作曲も小説書きもその人にとって必要な獲得すべきスキルと獲得法がバラバラである。なのにどうして教えることができるだろうか。助言なら与えられるかもしれないが、やっぱり自分で見つけて獲得していくのが実は最も効率的ではないかと思う。

貴方は去ってしまったけれど、私はそんなに淋しくない。なぜなら、貴方が消失したわけではないからだ。音楽をやっている限りは同じ世界を見ていて、そこに生きている。私にはそんな人が何人もいる。いろんな理由で私の側からいなくなってしまったけれど、アンサンブルや共同制作はできないにしても、同じ世界にコミットしている。私は自分がやりたいことをやっているだけだし、貴方と繋がるために続けているわけではないけれど、結果それが繋がることになるのなら、とても嬉しいことだし、幸福である。

そして、今音楽を通して繋がっている貴方や、文章を通して繋がっている貴方のことを大事にしたいし、交流していたい。側で鑑賞したいし、できれば何か一緒につくりたい。時々音楽の美を始めとした難しいことも考えるけれど、自分の欲求は実にシンプルなものである。ただ音楽に関わっていたい。音楽について考えていたい。それだけだ。

過程に重きを置いているけれど、諦めなければ道は閉ざされないとも思う。過程と結果の価値の一致を理想に私はただ為したい。

風邪というご褒美

風邪というご褒美。この間もひいていた気がするけど、まあ良いよね。今日はくだけた言葉で書きたい気分。書くことは正直なところ何もないんだけどね。行くべきところに行かず、今日は久しぶりに精神的にも肉体的にもお休みだったの。初めてのことだったので、ワクワクしてしまって午前中は休むどころじゃなかった。そのぐらい珍しいこと。

動けない時に限って勉強したくなるのはなんでなんだろう。とか、あ、家の中にハエのようなものがいるなあ。とか、散らばる心の中の言葉を寄せ集めてみる。今読んでいる本は欲求不満を増幅させるかのような代物で、もう少しなんというか深い?話を期待していただけに、ただのエッセイだなあこれ、って思いながら読んでいるので、すぐに手から離れてしまう。本が悪いの?私の感じ方が悪いの?きっとどちらでもない。たまたま手に取るべきタイミングがズレているだけなんだ、と思う。

そうだ、思い出した。今ね、「ある女の子のはなし」という話を書いているの。昔の日記から内容を引っ張ってきているのだけど、なかなかに痛々しくて書けない。でもこの子がキラキラ輝く瞬間をお話の中で書けたら良いなと思っている。痛々しくも、輝かしいみたいな?良く分かんないけど。その子はいつも一生懸命なんだ。だからそのことを描きたいなと思ってる。まあ、自分のことなんだけどね。今はもう他人みたいな自分の話。どうやって今に繋げようかなあっていうのが考えどころ。

ふと、なぜか学校のピアノ練習室を思い出す。私はピアノが本当に下手くそで、練習してもしてもこれ以上は上手くならないなってラインがあって、もし、良い先生に出会えていたら違ったのかなあなんてちょっと考える。ピアノの先生のことはあまり考えたくない。良い別れ方をしなかった。私が病気で変わってしまったのを理由に無視されたから……。

今日はシューベルトピアノソナタを聴いたのだけど、シューベルトは難しいなという感覚を覚えた。第1楽章がまず予測がしづらい音の並びで緩急が短いスパンでついていて、聴くのが大変だった。第2楽章はロマン派らしい音楽で、もう、私の苦手な、もろ苦手な音楽だった。第3楽章はあまり記憶にない。第4楽章は女の子がスキップしているみたいな感じの音楽で可愛かった。シューベルトも聴き込むと良さが分かるのかもしれないけれど、ぱっと聴いた印象では、まとまりがなくて把握しづらいというイメージが強かった。いわゆるスルメタイプの音楽なんだろうね?はい、いいかげんな感想終了。

胸の奥につかえているわだかまりを早く解消したい思いがあって、でも、今ある幸福は手から滑り落ちる、というか自分から捨てることになるので、非常に心苦しいのだけど、本当に苦しいのはきっとそれをいまだ知らされず、ある日突然に告げられる彼の方だと思うから、このぐらいの痛みには耐えなければならないと思う。

という感じで今考えていること、思いついたことを並べ立ててみたけど、いやひどいありさまだね。話が飛び飛びだー。でも消すのはもったいないのでここに残しておこう。

二人は互いに孤独だった

ここ数日、私の内的世界は混沌としていた。それは貴方のせいもあるけれど、この時期だからという理由が大きいだろう。そこに貴方が現れる。全くもって本当に貴方は貴方だ。貴方は私をいつまでも苦しめるのか、どうして私は苦しいのかなどと昔考えていたことを掘り起こしたかのような錯覚。目眩がする。私の心はどうして分散されているのだろうか。何か物事ひとつに絞り込めれば良いのに、なぜかここにもあそこにも、季節外れのクリスマスツリーのように至るところに意識という飾りが世界という木につけられている。装飾的なことを厭えば良いのか、しかし、それを厭うということは自己否定に繋がりはしないだろうか。決して心が揺らいだということはない。縺れた糸を一生懸命解している最中であって、縺れていることを諦めたり、解す意思がなかったりしているわけではない。絡まった糸を解く時、過程としてその絡まりが余計に悪化しているような状態になることがある。まさに今がそんな時な気がしている。

貴方と連絡を取ってしまった時、チクリと刺すような痛みを覚えた。「あ…」これが罪悪感というものか。でもどうしてだろう、連絡を取っただけなのに。話をして、徐々にその罪悪感の出処が分かってくる。消えたと思っていたものがあったという発見をしてしまう。貴方への想いは確かに霞んでしまったのだけれども、全てがなくなったわけじゃなかったということがここで分かってしまった。甦る感覚。思い出。溜息が出る。

(この文章を読むであろう君を、また傷つけてしまうことは承知の上で、しかし自分と正直に向き合うことがきっと君のためになることを信じて書いている。)

私はいつも独りで、孤独で、貴方と出会ってからもずっとずっと独りきりで。でも、貴方も同様だったのだろう、と別れ際に言われた言葉で分かった。二人は互いに孤独だった。

暗い部屋に1人いて、過眠だった私はほとんどの時間を睡眠に費やしていた。寝るだけの生活は空虚でたまらなく辛かった。そこに貴方は僅かにいて、通話で「元気?」と尋ねてくる。いつもそうだった。私はいつも不調だったけれど、その「元気?」という言葉を聞く度に心が温かくなり、安堵した。

冬に会った時、繋いだ手をまじまじと見るなり、「白すぎる。病人みたい」と笑いながら言う貴方の顔を思い出し、夏に会った時の眩しすぎる太陽を思い出す。自転車に二人乗りすることを私は拒否して、二人で汗をかきながらトボトボと貴方の家へ向かった。ホテルの暗い照明の中で、激しく求め合ったことも覚えている。そう、貴方との思い出は明るすぎるか暗すぎるという極端な色彩を持っていた。そこにどういう意味があるのかは分からないけれど、忘れやすい私がこれだけ覚えているということはほとんど奇跡に近い。

でもね、貴方には悪いけれど、もうこれらは本当にただただ大事な思い出として残っているだけのものなんだ。これ以上の思い出は増えない。増やさない。増やしてはならない。貴方は貴方が以前言ったように「思い出の中だけでしか生きられない」。だから、私は最後の貴方の願いを受け入れることなく拒絶しなければならない。それがどんなに辛くても。なぜなら、もうどうしようもない関係だから。私は貴方を求めてはいないのだから。分かる?伝わっているよね。分かってはいるのに貴方は求めてくる。本当にタチの悪い人だと思う。

単に彼との関係を切るだけでも辛いのに、もうその準備を始めなければならない時期に来ていてそれだけで辛いのに、どうしてまた貴方なんて問題が出てきてしまうのだろう。そして不思議なのが、私は貴方のことを本当に愛していたのだけれど、貴方のことを考える時必ず体調を崩してしまっていた。辛くて気分が悪くなっていた。そこがやっぱり引っかかる。今、好きな人のことで悩んでもそういうことは起こらない。だから、やっぱり私と貴方では何か無理が生じている気がするの。貴方の世界では、まだ私という存在が前とあまり変わらずにそこにあるのかもしれないけれど、私の世界は随分と変わってしまった。…好きな人がいるの。分かっているでしょう。でも、貴方は分かっていながら未だに関わってくる。私は残っている情のせいで苦しんでしまう。どうかそっとしてほしい。でも、貴方はそのことも知りながら、求めてくるんでしょう…。

貴方が最後に伝えたいことを伝えられないままこの物語は終わってしまう。そうであるならば、この物語を閉じる前に、私に伝えてほしい。直接会って言うことは叶わないから、今ここで。ねえ。でも、それさえ叶わないまま、終わってしまうのだろう。だからこそ、世の美しい物語には意味があり、需要がある。貴方が言っていたように。

I don't get it

倦怠感がものすごい。そういえば病気だったんだなと怒りのコントロールができないことによって思い出された。もしかしたら、怒るようなことでもなかったのだろうかとも考え直してみたけれど、やっぱりひどいことをされたという感覚が拭えない。これが病気のせいだとしても、病気のせいなら尚更折れるべきでないのだろうと思う。喧嘩をしたのだ。怒るポイントはいくつかあったけれど、生理痛を理解してもらえず、体の心配をされるどころか俺のご飯がないじゃないかと怒られた。意味が分からない。私の体調の心配をしてくれなかった。意味が分からない。私の体の調子は彼にとってご飯以下の価値なんだろうな。意味が分からない。「I don't get it !(意味が分からない!)」と言って部屋を飛び出したい気持ちを抑え、暴れたい衝動を抑え、なんとか癇癪を起こさず穏便に過ごした。ベッドで1人怒りを落ち着かせようとしていた。ベッドに横たわっている間はお腹より腰が痛く、じわじわとくる生理痛特有の痛みに耐えていた。時折凄まじくお腹が痛むことがあり、唸り声を上げていた。彼はそれに気づくことなく眠っていた。「苦しい」「助けて」と誰にも言えない辛さを抱えて、誰にも癒せぬ怒りを抱えて一晩中過ごした。

昔イライラしていた時期があった。断薬して、しばらく経ってからのことだったが、毎日が辛くてたまらなかった。理由のない怒りがこみ上げてきて、彼に八つ当たりするしかなかった。すぐに別れるだの、死ぬだのと言い、彼を翻弄させた。でも、そのぐらい私も辛かった。ちょっとしたことでキレて、一度キレるとなかなか収まらなくて、母が隣で眠る布団の中で目をカッと見開いたまま一晩過ごした。脈が速く、力が入りすぎて頭が痛くなった。暇つぶしに携帯をいじっていたけれど、何時間もいじり続けていると、指の関節や手首が痛んだ。軽い腱鞘炎になっていた。ヒルナミンの強力な眠気を求めるも、手元にあるのはワイパックスというしょうもないマイナートランキライザー。10錠飲んだところで全く意味をなさなかった。

そんなことを思い出していた。あの頃は辛かったな、とようやく言えるようになったが、あの頃の辛さを昨日ばかりはぶり返してどうして良いか分からなかった。朝になっても、気分が落ち着くことはなく、痛んだ指、手首、頭。仰け反っていたのか背中も痛かった。朝になるとさすがに消耗感があったので少し眠ることができ、何か衝動的な行動を起こしたくなるほどの強い怒りは落ち着いた。やはり睡眠は大事だ。

もう、このままでいいと思った。このままこの人とは分かり合えないまま別れてしまっていい。その方が理由があるし、冷めたから別れるというのは至極自然だ。好きな気持ちを抱いたまま別れようとしていたのだけど、相手からすれば理解できないだろうし、此方のほうが自然だろう。投げやりになっているわけではない、冷静さを今は欠いているかもしれないけれど、でも、衝動的に思っているわけでもない。彼は私の不調に気づかなかったし、病気を理解しようとはしなかった。そこが長期的に見てダメだなと今なら言える。私の体調にひどく振り回される人は持たないが、動じなさすぎてもきっとダメなのだと思う。ダメな理由ばかり探している。

2人で食卓を囲んで食べるはずだった鶏の唐揚げを仕込んでいる。1人で食べて、残りはお弁当のおかずにしようかと思う。それでいいと思う。

ビロードに浮かぶ雫

刻々と時間が過ぎてゆく。今まさに愛おしい記憶の生成を目の当たりにしているところでした。この上ない幸福であるのと同時に、それが脆く、すぐに失われる可能性を持っていることに私は些か不安や悲しみを抱きながらそこに佇んでいました。喜びに打ち震える体をぎゅっと抱き締めると、内側から熱が溢れるように発せられ、それを感知されるのが恥ずかしくて彼から目をそらし、少し距離を取ろうと動きます。しかしながら、その一部始終を見つめられていたので、全く隠し通すことができなかったのです。

「熱いの…」

「うん」

白旗を揚げるように率直な体の変化を呟くと、やはり気づかれていた、ということを嫌でも分かってしまったのですが、喜ばれたり、茶化されたりというリアクションがあるわけでもなく、そのリアクションがないということによって私の心は平静を取り戻す機会を得ることができたのでした。平静といっても先ほどの妙な緊張とはよそに、興奮という作用が体を支配していたので、胸の高鳴りは止むことがなかったのですが。溢れる熱を隠そうとした時、相手を騙してしまうようなそんな罪悪感に襲われたこともあり、隠すことで一体どんな自分を保ちたかったのだろうという考えが過ぎったのでした。後から考えればそれは何事にも動じない自分を演出したかったのだろうと思ったのですが、全く相手にも自分にも得のないことになるだろうと、考えれば考えるほど咄嗟の自分の言動が支離滅裂としていて滑稽に思えるのでした。

彼は照度を変えたり、音楽を消したり、テレビを消したりと元あったものを細かに変えていました。それは、誰もがするような雰囲気づくりではあるのだろうけれど、もっと何か思考されたゆえのものである気がしてなりませんでした。その光景をその時は「不思議だなあ」と呑気に眺めていたのですが、後になると理に適っている、つまり、合理的な判断だったと感心しました。実は私が常用している薬が注意力を散漫にさせるものだったのです。私の意識は普段おかしなところにまで向けられていて、後に振り返った際はその部分が強調される性質がありました。例えば躍動的な何かがあれば、対比として部屋の無機質さに意識がいき、記憶としてはその無機質な感覚だけが手元に残るようになっていました。実際、部屋に入って始めの1時間ぐらいは意識があちらこちらに散らばり、箱庭の砂の上に様々なサイズのキラキラとしたビーズを投げ散らかしているようなそういう精神状態でした。甘い時間に行為を重ねようとしても、容赦なく過ぎていく時間に気を取られてしまい、時間を見ずにはいられなかったり、目の前で繰り広げられている出来事よりその一寸先ならまだしも、もっと先の未来のことを予感しては「集中していないな」と冷たい目でこちらを見る自分に指摘されて、反省したりするのでした。定点カメラを通して世界を見つめる自分というものの存在がこの時ばかりは鬱陶しく思えるのです。小学生の頃からクラスメイトに「雲の上の人みたい」と言われ続けて育った私は、自分の行動がそのように相手に思わせていることに気づくのは容易だったのですが、どうやっても俯瞰している自分というものが自分の中に存在していて、潰せないことに苛立ちを覚えていました。没頭できない。それは苦しいことでした。人はなぜ人を馬鹿にするのでしょうか。自分が優位に立てなければその場にいられないようになっているのでしょうか。人を馬鹿にする自分の存在をたまらなく嫌になりながらも、その俯瞰する自分と暮らし続けた私は、自分の一性質としてそれを甘んじて受けるしかなかったのです。最近になって自分というものが薄まりつつあり、ゆえにその苦しみを感じることも少なくなったのですが。

彼の「雰囲気づくり」のおかげで自分との戦いは徐々に減衰していきました。「集中してないな」と指摘してくる自分がひっそりと息を潜めたのです。部屋に入る前にコンビニに寄り、買い物をしていたので、テーブルには食べ物や飲み物がたくさん置かれていて、先ほどの箱庭の名残りをそこに見ることができます。コンビニに入る前、道を歩いている時も数日前からも私の「計画」の中では「おにぎりを買おう」という意識が強くあったのだけれど、彼と会い、コンビニに入った瞬間にその記憶は消し去られていました。「ここはパスタが美味しいの」という自分のセリフに引っ張られたのか、パスタを眺めると急にたらこパスタが食べたくなり、手に取りました。そして彼も「自分もたらこパスタが食べたかったんだ」と同じものを手に取ったのでした。このように、たまたま同じものを選ぶということがこの後3、4回繰り返されたため、私は「運命だね」という安っぽいセリフが喉元まで出てきては、引っ込めるということを繰り返したのでした。たらこパスタをいただいて、氷をグラスに入れました。そこにジンを注いで、サイダーで割り、軽くかき混ぜるとやはりそれは透明でしたが、アルコールのモヤモヤが僅かに見えていました。久しぶりに飲むジンの味に昔の記憶が甦りそうになったのですが、幸福な時間にとっては余計なものでしかなかったので、その記憶たちと戯れることはしませんでした。モヤモヤの中に虹色の世界を見、彼の文章の世界がチラチラと見えています。それを飲み干すとはなんて心地良いことだろう!思いの外甘ったるくなったジンはゴクゴクと飲むには濃く、ちびちびとやるには薄かったので、早すぎず遅すぎず緩やかなペースでなくなっていきました。

お酒を飲み干した頃には私たちはすでにもう蕩けきっていて、互いに相手の体内を巡り巡った後でした。残っている記憶におかしな部分はありません。対比効果に興奮する自分はそこにはもういませんでした。彼のおかげで私は彼を見つめることができたのです。目に見えるものも見えないものも、手に取るように「分かる」感覚がそのときありました。同時に、「見せたい自分」が消失して何もかもを見られること、見透かされることを恥ずかしがらない自分がいました。つい数時間前まで隠そうとしていたのに。

幸福な時間が幸福な記憶へと移り変わることには悲しみがつきものです。「今が名残惜しい」と呟く彼に共感しながら、部屋を出て、夕食を食べるためにお店に行きました。そこで食べながら私はふとサイダーを思い出したのです。サイダーが一本、全く手をつけられることなく部屋に置き去りにされていました。もし、私がそのサイダーの存在に気がついていたら、ジンをもう少し飲んでいたかもしれない。でもそれはきっと、「買ったものはすべて消費しなければならない」といった義務感だとか、理性のようなもので、あの場には相応しくなかったかもしれない。

幸福な時間が完全に記憶へと移行した後に私は夢を見ていました。防水スプレーによって吸収を塞がれたビロードにサイダーを垂らしてその雫の塊をじっと見ている夢でした。弾かれた雫はいつまでもそこに留まっていて、まるで別れた後の孤独感でした。どんなに願っても雫はビロードの中に浸透することはないのです。でもそれは防水スプレーをかけられたビロードであって、防水スプレーの、強靭な膜が破られたらきっと雫はビロードに吸収されるはずなのです。そう、「あの時」はその膜が破られたのです。すかさず「集中してないな」と指摘した私が「それは錯覚だ」と冷たく言い放ちますが、どこか投げやりになっているのが分かります。「現実」では、1つになるなんてことは不可能であると言われていますが、元々は防水スプレーのかかっていない状態に人間はあったのではないか、という考え方もできます。つまり、自我というものが薄まった状態では周囲のものと一体になれるのではないでしょうか。その時、いいや繋がっていない、と証明できる術はあるのでしょうか。

きっと、普段は防水スプレーがかかっていて、ビロードに浮かぶ雫はそれゆえに煌めくのです。他者によって孤独を感じ、そしてまた他者によって愛を感じるのです。そして私達を分かつ強靭な膜が肉体とともに破られるとき、肉体と心、人と人はビロードとそこに浮かぶ雫の関係のようになります。雫がビロードに浸透し、濃く深い色合いへと変化します。

彼の声を聞くことで、彼の様子を思い出します。柔らかくて温かな瞬間が甦るようです。感謝という感覚とは違うのだけれど、彼のおかげで私は生き生きとすることができる、というのは明白な事実です。私には「貴方なしでは存在できない」という感覚が未だによく分かっていません。けれども、貴方を見つめることと同じ方向を向いて歩くことを両立したいと願っています。そして、今眠る彼の頬に口づけをするようにそっとこの文章を彼の生活の側におきたいのです。

彼の肌の感触や、色や、温もりや、欲望や愛がすべて混ざり合って透き通っています。そう、様々な色が混ざり合うことで光となるのです。生の対極が死だとするなら、好きの反対は虚無になるのでしょう。私はそこに違和を感じずにはいられないのです。在るということを受容するとき、私たちはその対象を幾分か捻じ曲げる癖があります。透き通っている彼のすべてが私には心地良く、しかし、それさえバイアスがかかっていることを認めざるをえないのです。それを踏まえた上で彼の存在は受容し肯定するまでもなくそこに在るということに意識を向けたいのです。これから何度もその感じ方の癖によって私たちはズレたり、衝突したりするのでしょう。でも、互いが在るということに結局は救われる気がしています。滑らかなビロードに何度も雫をこぼしては、一体となる夢を見、そしてそれをある日、夢でなく現実であると認めたいのです。

「愛してる」と言ったあの言葉はなんだったのか

曲を作るといつも眠れなくなる。興奮するのだ。それに今日は初めての人と通話をしたし、ツイッターのフォロワーも2人増えた。最近では彼以外とは滅多に通話しないし、フォロワーが増えることも稀なので久々に刺激的である。これは眠れない。

曲は、昔作りかけていたもので続きを書いてようやく完成させた。しかし、始めはポップス寄りだったのに、いつの間にかクラシック的なアレンジになってしまい支離滅裂感がすごいのでおそらく作り直すだろう。展開に乏しかったので途中で長調に転調したのだけど、それが失敗の引き金だったなと聴き返して思う。もう少し「我慢」が必要だったのかもしれない。

フォロワーが増えた関係で、彼のことを思い出してしまった。最近はどうしているのだろう。なんだかんだ言ってやっぱり好きなものは好きなんだろうなと自分のツイログや今現在抱いている感情から思う。「愛してる」と言ったあの言葉はなんだったのか、あの時本当にそう思ってくれていたのかも怪しい。全く分からない人である。私だって他人から見れば「全く分からない人」かもしれないけれど。彼と直接関われないのはまあ良いとして、「こういう思想をもった人がどのような人生を歩むのか」ということが未だに気になるし、できれば活躍ぶりを追いたいという欲求がある。私とは全く違う生き方をしているのだから、行く末も全く違うのだろうということは容易に想像できるのだけど。果たして彼は本当に「成功」するのだろうか。正直な話、私は彼に今のところ負けているのだけど(いろいろな面があるが、主に作曲の技術的な面で)、なぜだろう、最終的には負ける気が全然しない。ほとんど根拠のない自信なのだけど、私は自分の選んだ道が間違っているとは到底思えないのだ。まあ私がやりたいことは彼とは違うので比較のしようがないというのが正しい見方であるけれど。

ツイッターの話に戻るが、今までリアルの人と関わりたくないという理由で音楽関係の人をフォローするのは避けていたのだけど、そこまで世界は狭くないし大丈夫だろうという考えに至ったのでこの頃フォロー数を増やし始めた。それに、私は音楽をやっている人とは基本的には合わないんじゃないかという気がなんとなくしていた。実際、合わない人が大勢いて上手く関われなかったのだけど、そうでない人も僅かながら存在している感じがするので、めげずに関わってみようと思う。

何か楽しいことが始まる予感がある。勉強も読書も作曲も地道に続けて上手いこと考えを体系化できたら良いな。そのためにも今日はよく眠ることにしよう。

微睡みの中で確かに温かなものが私の体に触れている

微睡みの中で確かに温かなものが私の体に触れている。触れているというより、体全体を包み込まれているような心地である。髪を撫でられている感覚もぼんやりとあって、それを感じながら私は快く眠った。時間にしてほんの十数分の出来事だったかもしれないし、もう少し長かったかもしれないが、その快い時間は永遠に続くかのように感じられた。この時が止まってしまったかのような時間は、そう頻繁に起こるものではない。

そんな稀有な時間を思い出しながら、今日の穏やかな日を過ごしている。「蛍…。」なんとなく声に出してみるが、それが何を意味しているのか、自分でも判然としなかった。そのようなタイトルの音楽を作ったこともあれば、文字通り虫のイメージを想起しても良いしあるいは……。あるものによってすべてが1つの線で繋がるのを知っているけれど、それを表現することを避けている私がいるということによって、一体何をしたいのかやはり掴めぬままだった。つまり、その、「好き」なのかもしれない。と嘘をつく。ひどくあからさまな嘘をつくことで、私は何をしたいのだろうか、やはり分からない。この日記を読む人に向けて「こうである」と伝えたいことがあり、いつもは当たり前のように伝えているつもりなのだけれど、今日はその断片をちらちらと見せながら全体を覆い隠してしまいたいようだ。ややこしい性分である。

とある人の呟きが、私の意図の外側にぽつりぽつりと降ってきた。その的外れな言葉たちは、何を表しているのだろうか、私には見えてこない。ただこちら側にいる者にとっては、どうにも肩を竦めるようなことであり、響かない言葉は宛ら雨のようである。ずれてしまった言葉たちの、僅かな知性の可能性を信じたくて、私にはたまたま見えてこなかっただけだと言い聞かせるも、その言葉を発した者の知力のなさを揶揄したい気持ちは僅かに燻っていた。人はなぜそうやって核心に触れ得ない言葉を降らす雲を一掃したがるのだろうか。快晴に空虚はつきものだと言うのに。

ある時、ある人が私の好きだった音楽を聴いていた。青春時代に私という器に共鳴した音楽たちである。血液検査を受けているようなそんな感覚になった。言い換えると、体の中を覗かれているような気分になったのだ。一音一音が私の中に降り注いで、私という人が形成されるときに大いに影響を与えたに違いない。その音楽たちを他の人が耳にすることができる。当時の私が感じたようには感じないにしても、同じものを共有するということはどこかこっ恥ずかしくもあり、嬉しくもあった。今となっては批判の目を向けていることを明かしたい気持ちを抑えながら、なるべく鑑賞の邪魔にならないように言葉を投げかける。そのように心がけると、ウィキペディアで調べれば出てくるような事実を並べ立てることしかできないことに可笑しくなり、話すのをやめてしまう。その人は公平な目を向けてくれたのだろうか、結局のところよくは分からないのだけど、聴いてくれたということだけで私は満足してしまったのだった。

私の場合、逆の立場だとしてもその音楽たちを好意的な目で見ることができないことがある。自分の尺度でものを測ってしまう悪い癖があるからだ。その人の尺度でどう感じたかということより大事にしないといけないことなんてないのに、その音楽のどこが良いのか、どこが悪いのかを瞬時に捉えてしまう。当然、良いなと思ったところを見つけて話せば、共感は得られるのだけど、そうすると悪いと思った部分を隠さなければならなくなり、そこにほんの少し罪悪感が生まれる。他人の好きなものを鑑賞する場合、もっと受動的というか頭を空っぽにしてその音楽で体を満たすだけで良い。そういう意味では、私は聴き手としてまだまだなのだ。

つまり、私は私の好きだった音楽を聴いてくれたその人の好きなものをもっとまっすぐに受け止めたい気持ちがある。と、書いていて気づいた。音楽でなく、他のものならもっと容易いのかもしれないけれど、それを音楽においても達成できなければ、自分自身が納得いかないのだろう。

17時という切ない時間が向かってきている。何があるわけでもないが、私がこのブログを更新し、夕食を作るまでのその時間、なぜか自由に振る舞うことができなくなる。1日を振り返ってしまうからだ、と思うけれど、振り返らずにはいられないのだ。表現欲に掻き立てられている今、やることといえばおそらく音楽だが、振り返りながらでは良い音楽は作れないとも思う。しかし、何はともあれ手をつける。手をつけさえすれば、そこから何かが生まれるはずだから。