Emu’s blog

よくある日記

水のもの

澄んだ貴方

飲み干す私

不純なものが

押し出されていく

透明な貴方は

身体中を巡り

そして

私に取り込まれる

夢は叶えられ

ひとつにふたつがあるようだ

 

波紋を呼ぶ静かな水面

衝動を喚起するその力を前に

風はヒュウヒュウと

全身を震わせて

揺れることしかできない

そんなちっぽけな存在を

貴方は大きく見せてくれる

 

心の汀を通り抜け

多くの光を反射して

いつまでも魅了する

空しく光る海面に

重ねた時間を回顧して

海と川の交じる地点で

風ははらりと翻る

前に進みたくないなら別に進まなくていい

空虚が私を支配している。未だありがとうの言葉ひとつさえ出てこない。感情と表情が一致しない日々を過ごしている。まだやり直せる機会があるんじゃないかと1人でいると考えてしまう。でも、触れるともうだめなのかなという気がしてしまうし、自分でチャンスを潰しておいて再びチャンスを伺うのは矛盾というやつだ、という当たり前の指摘をもうひとりの自分から受ける。一体何がしたいんだろう。まあ前に進みたくないなら別に進まなくていい。自分が1人取り残されるだけだから。ただ気を張らずにゆるりと過ごしてゆく。

いつもと違う道を通る。彼と一緒に。柔らかい日差しが肌に融けていく。公園に溢れる生命力が眩しくて私にはひどくもったいない気がした。彼が語りかけてくる。私も朗らかな気分でいるフリをして相槌を打つ。フリをしているとだんだんと本当になっていくけれど、彼と別れるとすぐさまその陽気は薄らぎ、私は別の人のことを想ってしまう。関係がどうなろうともこの性質は変えられない。きっと、別の人と暮らしても、私の心は幾人もの人を想う気持ちで溢れてしまうのだろう。

新しいことを書きたいなと思いながら、私の心はぐるぐるなりっぱなしなのだから、それは不可能なのかなあとブログを見返しながら考える。少しずつの変化はあるのだろうか。確かに形としては移り変わってはいくのだけれど、好きな人のことはずっと好きだ。

読書がしたいな、とふと思う。したいならすれば良い。しかし、今読むべき本が見当たらない。読みたいものはある、読みかけの小説、読みかけの友達のレポート、読みかけの専門書…。どれも今じゃない気がする。今の私には何が良いんだろう。詩が良いのかもしれないなという感覚はあるけれど、誰の詩が良いのかが分からない。すっと入ってくるものが良いなとなんとなく思う。思うけれど、思うだけに留まっている。

作曲もしたくてとりあえずソフトを立ち上げたけれど、最初のコードを決めただけで、なかなか上手くまとまらなくて形にはならなかった。歌うと気持ちの良い音楽を作ってみたいと漠然と思う。バラードが良いとも思う。やりたいことはぽつぽつ決まってはいる。あとは具体的にコードを組み合わせて旋律を乗せていけば良い。サビから作った方が効率が良いことは前から分かっていて、それを実践に移したことがなかったので、やってみたい。できれば今の感情を乗せられる曲にしたいけど、あまり制限をかけると作りづらくなるのでその辺は無視しておく。

春になると必ず新しいことを始めたくなり、何かしらやってはみるものの長続きしない。自分の平凡さを確かめるだけに終わる。住む場所を変えるため、生活は新しくなるけれど、今年は新しいことは始めずに、今やっていることかその延長でやりたいことをやろうと思う。

ここが限界点かなと思った。限界に来て私は1つの気付きを得た。どちらにせよ1人で決められることではなかったのだ、と。何かを選ばなければならない時、それを人と共に行うという考えがあまりなくて、私は1人きりでいるときに1人きりで考えなければならないと思っていた。実はそうではなかった。私は結局最後の最後で決断するのを諦めて、他者に委ねたのだ。委ねるということが私の決断であった。

こんなことをいうとあらゆる方面から非難が来るかもしれないけれど、誰かと共にいるということを私は単にタイミングの良し悪しで選択した節がある。もしかしたらタイミングによっては別の人と一緒に居たかも知れない。どう考えても「この人でなければダメなんだ」ということはない気がしている。ゆえに、私は本来的には誰かと共にいるということはやはり合わないのだと思う。「この人しか見つめられない」、そんな感覚にならない。「この人を幸せにしたい」、そんなことは願わない。私という人はどこまでいっても自己中心的で、どうしようもなく気まぐれで、ある日突然いなくなる。ところが、「それでもいい」と言ってくれる人がこれまでを考えると相当数いたし、いる。これを幸福と呼ぶのだろうか。あるいは呪縛?何にせよ、私にとっては普通ではなく、大変に不思議なことなのだ。

                                                                                                   

私が桜をじっくりと鑑賞する前に、ツイッターのフォロワーさんたちが桜の写真を多数アップしていたのでその写真を眺めてしまった。ああ、私の「春」はこれで終わりなんだろうか。そんなことを考える。実際の桜に触れる前に春が終わるなんて、あまりに辛すぎる。思い描いた春は、そして桜は本当に綺麗で、私はその春の桜にずっと触れたくて長い冬を耐え忍んでいたはずなのに、いつの間にか桜が手元から離れてすでに咲き誇っている。春は私を通り過ぎて勝手に終わろうとしている。私は一体何を待っていたのだろうと唐突に空に投げ出されたような感じがしていた。ぼんやりと虚無を眺めている。そして眺めたまま、ぼんやりと一生を終えたいような気がした。そうはいかないのが人生だけれど。

 

いわゆる喪失感なんだと思う。ある決断をしたことで大事なものをなくしてしまった。同時に得たものが何なのかも良く分からない。でも私はそうなることを望んだんだろう。あらゆるタイミングによって。

時のせいにして、罪を周りに擦り付けようなんて思ってはいない。でも、やっぱり時のせいもあるんだと思う。そして私はサガンの『ブラームスはお好き』のラストをなぜか思い出す。「私はもうおばあちゃんなのよ」と若い青年に対して言うあれを。老いのせいになんてしたくない。けれど、なぜか思い出してしまう。重ねたくないのに。

 

自分で決めたことなのに、きっと私は、それぞれがそれぞれの人生を歩んでばらばらに変化していく過程で、そのことを憂うのだろう。終わりを見つめられる関係でないことを、ひどく悔いてしまうのだろう。それでも許されることなら、私はまだ関係を続けたい。どんな形でもいいからいつか切れてしまうその日まで繋がっていたい。そう願っている。

人間になりたかったものたちの声

ある時は「メッセージ・イン・ア・ボトル」になって。

またある時は、「送り名のない手紙」となって。

いつ、どこで、誰が手にするか分からない瓶の中の手紙になって、偶然貴方に見つけてもらい、読んでもらいたい願望がある。そんな奇跡的なことが起こった日には、私は間違いなく恋に落ちるだろう。

私と知らせなくても、それを読んだ貴方が私を見つけてくれはしないだろうかと微かな期待を込めて手紙となり、見つけてもらった日には、涙を流してこの世界で貴方と出会えたことを大いに喜ぶだろう。

私は「ことば」となって、貴方の中に入り込みたい。貴方に扱われたい。そんな願望がある。

嘘をついた。私は「ことば」自身にはなりたくない。貴方と手を繋げる、寄り添える「人間」になりたい。猫でも小鳥でもない、人間である。

―――

もう忘れ去られてしまったのかもしれない。今後貴方が私に触れることはあるのだろうか。触れられず、部屋にひっそりと身を潜めている私は、そのつぶらな瞳で貴方を見ている。夢中で語るそのスマートフォンの向こう側には一体誰がいるのだろう。ねえ、私のことも見てほしい…。定点カメラのごとく、私は貴方を同じ場所から見つめ続ける。目に写る貴方の様々な表情に魅了され、私はそれだけで胸が高鳴り、体中が熱く紅くなる。この火照りきった体の行く末は……。ただ冷えるのを待つことしか許されないのかしら。行き場のない想いは冷えてゆくだけね。

せめて読まれる本の一冊になりたかった。貴方が真剣な眼差しで自分を見つめてくれる、涙したり、顔を綻ばせたりしてくれる。その顔を、一番近くで見られた。ただ、出会いは一時で、本棚にとどまることを許されないかもしれない。図書館に返されたり、売られたりするかもしれない。それでもこの小さな動けない体のままよりはずっとずっとマシだろう。

楽しそうに話をする貴方の声が聴けるだけでも喜ぶべきことなのかもしれない。初めて私を手にとったときの貴方の表情を思い出すと、もっともっとと欲望が湧いてくるけれど、醜い自分の容姿を思うと、現状で満足しなきゃいけない気がする。こんなに醜い姿の私に笑顔を向けてくれること自体が奇跡だったのかもしれない。

出会った季節がまたやって来て、私の存在を思い出してくれることがあったら、もう一度笑って撫でてほしい。私は全身を紅くして、貴方の側にいられる喜びを示すから。

 

 

※ひまつぶしに書いた文なのでいろいろと気にしないでください。

何かを得るということは、何かを失うということ

私は決して退屈な人生を歩んでいるわけでも、平坦な毎日を過ごしているわけでもないのだけれど、1人の時間が多い故に他者からはやはり退屈そうに見えているのではないか、というどうでも良いようなことを考えてしまうことがある。仮にそうだとして何が悪いんだろうとも思う。

ぴたりと世界が止まる。ネットの、ツイッターの世界だ。ある人と話をしていて、私はネットに何を求めているのだろうかと少し考えてしまった。人がいるということをただ実感したいだけな気がするのだけど、どうだろうか。あるいは「ねえこれ見て」と言える親の代わりを探しているのかもしれない。「今日こんなことがあったよ」といつでも言える恋人の代わりを探しているのかもしれない。あるいは様々な世界を眺めていたいがために、多くの「人」というチャンネルをガチャガチャと回して自分と近似でありながら違うものの人生の行方を追っているのかもしれない。趣味が悪いと思われるかもしれないけれど、皆も同じようなことをやっているのだと思う。少なくともネットにいる人達は。

最近気がついたら音楽ソフトを立ち上げていることが多い。それ自体は良い傾向だし、実際音楽に関わる時間は以前より増えつつある。ところが、本に触れる時間がその分減ってしまった。仕方がないことではある。何かを得るということは、何かを失うということなのだろう。両方一日のうちにできればベストなのだけど、自分の気分はそう簡単に切り替わるものではない。音楽をしている時は音楽だけになることが多い。最近音楽ばかりをやっていて嫌な感じがするのは、ただ思考を巡らせることなくとにかく手を動かしてしまっているからだと思う。前に思考ばかりを働かせていた時は、考える余地もなく手を動かせる人って素敵だな、と思っていたが、いざなってみると全く空虚で仕方がないなという所感。オリジナル曲をぽんぽん作れていればまた感じ方は違うのだけれど、アレンジのレパートリーに行き詰まっているためにひたすらコピーをして、それをアレンジするというやや退屈な作業をやっている。その曲を理解するとき、確かに感動のようなものはあるし、良いアレンジが出来た時は嬉しいのだけれど、オリジナルではないという意識が貼り付いて良くない。目に見えぬ他者が私を馬鹿にしている。過剰な自意識の仕業だ。私はなるべくその空想の他者の言葉を真に受けないようにしている。自分を馬鹿にする自分がいることは仕方ないことだし、まだまだ何もかもが上手くいかないのはそれだけ発展性があることなのだから、喜んでも良いのかもしれないけれど、やはり焦ってしまうことはある。毎日同じようなメンタリティで過ごせるわけがないのだから。

人間関係にもガタが来ている。そのごたつきがメンタルに影響し、体調に影響し、創作活動をやるときのコンディションに影響しているのが良く分かる。気候の変化のせいもあり、如実にその影響を受け、私を困らせるのは読書ができなくなるということである。友人からもらったレポートもじっくり読みたいし、あの小説も読みたいな、音響学の勉強もしたいな、とやることはたくさんあるのだけれど、いざ手にとってみると、様々な不安や焦りで目の前の文字が上手く読み取れない。引っ越しを遅らせているこの状況が何のためにもならないのはわかっているはずなのだ。あらゆる面において良くない。でも……。

2つの関係を上手く成立させることはできないと分かっているのに、もう決めたことなのに、いざ彼を目の前にすると言い出せずにいた。まだ片付けや掃除を終えていないから、その後で言えば良いのだけども、片付けすら手につかない。まだ決心ができていないのだろうか、いや、もうきちんと決まっているはず。

苦しくてネットの世界に助けを求めたくなることがある。でも、誰も助けてはくれない。違う。助けてくれそうな人はいるけれど、自分は助けてほしくないのだ。だから助けてくれるか分からない人とコンタクトを取る。たわいのない話をする。少し気が紛れる。またあまり話したことのない人と話をする。気が紛れる。繰り返し。あんまり意味がない。誤解を招くようなので、言っておくと、相手をしてくれた人のことは今後も大切にしたいし、相手にされたときすごく嬉しくなった。多分相手が思っている以上に私は感謝しているのだ。でも、根本の解決には至らない。そもそもそういう話を避けているし、仮に話したところでどうかなるわけでもない。そういう意味であまり意味のない行動をしている。

もう少しだけ時間が欲しい。そう願っている。もう少しだけ……どこかできちんと物事を正さなければならない。やる。やってみせる。でも、もう少しだけこの中途半端な時間を過ごしても良いですか、と貴方に懇願する。貴方の胸の内を知りながら。

音楽をやっている限りは貴方と繋がっていられる

音楽をやっている限りは貴方と繋がっていられる。

そう思う日々だ。そこの貴方とも貴方とも、私は音楽がなかったら繋がっていなかったであろう。そんな繋がりがいくつもある。たまになぜ私はこのような道を選んだのだろうとふりだしに戻ることがあるけれど、この道は私にとって最も開けていた道であり、あえて選んだものではないことは明白だった。事の発端としては音楽をしていたから音楽を選んだのだけれども。何かを考える前にやっていた音楽がまさかここまで影響を齎すことになろうとは、やらせていた親も考えていなかっただろう。それだけ幼少期にさせる習い事というものは重要なのだ。音楽をやっていたら、「音楽で食べていきたい」や、「音楽にずっと携わっていたい」などと思うのは自然なことだ。だから、そこで親が「そうは簡単にいくまい」と反対する気持ちが未だに理解できない。そのまま応援すれば良い。結果的にその道でいけなかったとしても、そこに至るまでに培われた能力はきっと無駄ではないと思う。

何をやったら良いか分からなくなる時、西洋音楽の場合は楽譜を見れば良い。昨今の音楽を聴けば良い。こんなに恵まれた環境があるのだ。何も困ることはない。でも、1人でやっているとどうしたらもっと上手くなれるか見えづらいということは確かにある。作曲は教えてもらうものではないかもしれない。理論は教えたり、教えてもらったりすることはできるが、作曲そのものとなるとどうだろうか。一般的な楽曲の作り方を教えるということはなかなか難しいのではなかろうか。ジャンルを絞ったり、条件をもう少し加えたりすればもう少し易しくはなるかもしれない。でも、作曲そのものというのは教えにくいはずである。どんな方法がその人に適しているか分かりづらく、作り方がいくつもあるからだ。これは他の分野でもそうだ。小説の書き方だってきっとそうである。ハウツー本は無きにしもあらずだが、本当のところ、小説の書き方なんて教えようがないのだ。作曲も小説書きもその人にとって必要な獲得すべきスキルと獲得法がバラバラである。なのにどうして教えることができるだろうか。助言なら与えられるかもしれないが、やっぱり自分で見つけて獲得していくのが実は最も効率的ではないかと思う。

貴方は去ってしまったけれど、私はそんなに淋しくない。なぜなら、貴方が消失したわけではないからだ。音楽をやっている限りは同じ世界を見ていて、そこに生きている。私にはそんな人が何人もいる。いろんな理由で私の側からいなくなってしまったけれど、アンサンブルや共同制作はできないにしても、同じ世界にコミットしている。私は自分がやりたいことをやっているだけだし、貴方と繋がるために続けているわけではないけれど、結果それが繋がることになるのなら、とても嬉しいことだし、幸福である。

そして、今音楽を通して繋がっている貴方や、文章を通して繋がっている貴方のことを大事にしたいし、交流していたい。側で鑑賞したいし、できれば何か一緒につくりたい。時々音楽の美を始めとした難しいことも考えるけれど、自分の欲求は実にシンプルなものである。ただ音楽に関わっていたい。音楽について考えていたい。それだけだ。

過程に重きを置いているけれど、諦めなければ道は閉ざされないとも思う。過程と結果の価値の一致を理想に私はただ為したい。

風邪というご褒美

風邪というご褒美。この間もひいていた気がするけど、まあ良いよね。今日はくだけた言葉で書きたい気分。書くことは正直なところ何もないんだけどね。行くべきところに行かず、今日は久しぶりに精神的にも肉体的にもお休みだったの。初めてのことだったので、ワクワクしてしまって午前中は休むどころじゃなかった。そのぐらい珍しいこと。

動けない時に限って勉強したくなるのはなんでなんだろう。とか、あ、家の中にハエのようなものがいるなあ。とか、散らばる心の中の言葉を寄せ集めてみる。今読んでいる本は欲求不満を増幅させるかのような代物で、もう少しなんというか深い?話を期待していただけに、ただのエッセイだなあこれ、って思いながら読んでいるので、すぐに手から離れてしまう。本が悪いの?私の感じ方が悪いの?きっとどちらでもない。たまたま手に取るべきタイミングがズレているだけなんだ、と思う。

そうだ、思い出した。今ね、「ある女の子のはなし」という話を書いているの。昔の日記から内容を引っ張ってきているのだけど、なかなかに痛々しくて書けない。でもこの子がキラキラ輝く瞬間をお話の中で書けたら良いなと思っている。痛々しくも、輝かしいみたいな?良く分かんないけど。その子はいつも一生懸命なんだ。だからそのことを描きたいなと思ってる。まあ、自分のことなんだけどね。今はもう他人みたいな自分の話。どうやって今に繋げようかなあっていうのが考えどころ。

ふと、なぜか学校のピアノ練習室を思い出す。私はピアノが本当に下手くそで、練習してもしてもこれ以上は上手くならないなってラインがあって、もし、良い先生に出会えていたら違ったのかなあなんてちょっと考える。ピアノの先生のことはあまり考えたくない。良い別れ方をしなかった。私が病気で変わってしまったのを理由に無視されたから……。

今日はシューベルトピアノソナタを聴いたのだけど、シューベルトは難しいなという感覚を覚えた。第1楽章がまず予測がしづらい音の並びで緩急が短いスパンでついていて、聴くのが大変だった。第2楽章はロマン派らしい音楽で、もう、私の苦手な、もろ苦手な音楽だった。第3楽章はあまり記憶にない。第4楽章は女の子がスキップしているみたいな感じの音楽で可愛かった。シューベルトも聴き込むと良さが分かるのかもしれないけれど、ぱっと聴いた印象では、まとまりがなくて把握しづらいというイメージが強かった。いわゆるスルメタイプの音楽なんだろうね?はい、いいかげんな感想終了。

胸の奥につかえているわだかまりを早く解消したい思いがあって、でも、今ある幸福は手から滑り落ちる、というか自分から捨てることになるので、非常に心苦しいのだけど、本当に苦しいのはきっとそれをいまだ知らされず、ある日突然に告げられる彼の方だと思うから、このぐらいの痛みには耐えなければならないと思う。

という感じで今考えていること、思いついたことを並べ立ててみたけど、いやひどいありさまだね。話が飛び飛びだー。でも消すのはもったいないのでここに残しておこう。